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小説『海と毒薬』

「何です。それは」
「アメリカの捕虜を生体解剖することなんだ。君」

 

 遠藤周作著『海と毒薬』は1945年に起きた九州大学生体解剖事件を題材とした小説です。

 

 新宿から電車で1時間かかる不便な田舎町に越して来た「私」は気胸を患っている。そのため、その町の医院に週に一度通わなくてはならない。小さな医院を1人でやっている医師の勝呂はどこか不気味な男に感じられたが、非常に腕のいい医者であった。

 しかし、「私」は勝呂が戦中、生きたアメリカ人捕虜が解剖された事件に関わっていたことを知る。

 

 場面は変わり、勝呂が大学病院のにいた頃のことが語られる。勝呂の上司であるオヤジは次期医院長選挙に名乗りを上げていたが不利な立場にあった。前任の医院長が亡くなり、次期医院長を選ぶにあたって、勝呂の所属する外科は大きく2つの派閥に割れている。そこで、オヤジの一派が軍部との繋がりを強くするために持ち上がったのがアメリカ人の捕虜を解剖するという話だった。

 

というのがあらすじです。


・「私」が勝呂医師に出会い治療を受ける
・勝呂医師が解剖に立ち会うことになるまで
・解剖に立ち会った看護婦と勝呂医師の同僚戸田の手記
・解剖当日の出来事とその後

というように大きく4つのパートに分けられます。

 

 著者の遠藤周作キリスト教徒であり、この作品にもキリスト教的な考えやテーマが織り込まれているものと思われます。私自身はキリスト教に関して高校の倫理で習った程度の知識しかありませんが…

 

 この作品は「良心」とは何かを扱ったものだと私は思います。勝呂は自分の中に「良心」を持っている(と思われる)人物でした。対照的に同僚の戸田はどこか冷めていて、割り切っている人物です。

 

『本当にみんなが死んでいく世の中だった。病院で息を引き取らぬ者は、夜毎の空襲で死んでいく。』

 

 作中では、九州が空襲に晒される描写が度々登場します。

 

 戸田は勝呂に対して、

「オペで殺されるなら、ほんまに医学の先柱や。」「何をしたって同じことやからなぁ。みんな死んでいく時代なんや」「執着は全て迷いやからな」

といった言葉を頻繁に投げかけます。戸田はある種諦めのようなものを持っているように思います。

 

 しかし、戸田は自分の中に「良心」がないことに怯えています。罪を犯しても、社会の制裁に対して怯えているだけであって、心から自分の良心が傷む、自分を自分で責めるという気持ちがどうにもない。その様が勝呂と対照的に描かれていきます。

 

 読み終えて、いや、戸田も直接意識していないだけで良心はあるんじゃないのと思いました。自分がしてしまったことの重大さは分かっていて、それに釣り合う社会的な制裁に怯えているのは、直接的ではないにしろ、罪の意識があってそれを認識しているのでは?と。

 

そもそも、何かをしでかしてしまったときに「ああ、やってしまった」と思うのは、他人の目、つまりは社会的な制裁が存在することを意識するからではないでしょうか。犯罪を犯したとして、絶対に、100%、誰にも知られず、明日からの生活も何も変わらないという保証があるとしたら?誰からも責められることがないとしたら?果たして、私たちは通常の「良心の呵責」というものを感じるのでしょうか。良心というのは結局、人が元から持っているものではなくて、社会に生きる中で作られていくものなんじゃないかと思いました。誰を意識するかによって「良心」が何であるかは変わるし、何を優先するかによって「良心」のベクトルも違ってくる。

 

 どうも戸田にばかり目がいってしまったのですが、捕虜の解剖に至るまで、そしてそこに参加するまでには他の登場人物の思惑も渦巻いていて純粋にストーリーだけ追っていてもかなり楽しめます。

 

 冒頭の「私」のシーンで描かれているように、戦中暴虐の限りを尽くした人々も、戦争が終わってからは「普通の人」として生きています。その中で勝呂は「普通の人」として生きられないほどに良心の呵責を感じたままでいます。どこまで「良心」を持つのが普通なんですかね。

 

 それはそうと、夢野久作ドグラ・マグラ九州大学が舞台だった気がするんだけど、当時の九州大学医学部はそんなに怪しいイメージだったんですかね?気になります。