与太話

いろんな話

「火の顔」を観た話

※ネタバレてんこ盛り。原作未読観劇一回での感想です。

 

上手く行ってる家族ってなんだろうか、というのを昔からよく考えている。"上手く行っている"家族を見たことがないからだ。普通の、幸せな、上手く行っている家族のロールモデルが自分の周りにない。

 

この家族もそうだ。普通ではない。


普通の家庭のロールモデルがないまま、家族っぽい事をしている。とにかく家族の会話に中身がない。みんな父母娘息子の役をやってるだけ。ポーズとして会話し、ポーズとして共に食事をとる。ありふれていると言えばありふれているのだが、この家庭は取り返しのつかない崩壊を迎える。

 

母は一見オープンな性教育を行い、父は「風俗の女が殺されたんだ」という話題を繰り返す。リベラルというか性的な話題をタブーとしないポーズを取るのだが、それは子供たちの反発だけでなく、夫婦間にも影を落としている。


理解のある母、砕けた部分のある俗っぽい父の役を演じているものの、それは役でしかないばかりか、かなり上滑りした演技なのだ。


噛み合わない両親に対して、子供たちは結束していくが、その結束の根源が性的関係なのでどうしようも無い。弟のクルトが姉オルガに手コキされた事をきっかけに、もともと壊れていた家庭が本格的に壊れていく。そして理念や目的の共有ではなく手コキから始まった関係は脆いので、最終的に破綻する。クルトは姉の体を欲しているものの、その一方で「大人になりたくない」という意思をかなり強く抱いていることが随所で分かる。姉が世間の大人の言うような常識を説けば激しく反発するし、自分が生まれた時の記憶に激しくこだわりを持っている。

 

姉のオルガの彼氏、パウルが家に入ってくることによって、その歪さはだんだんと鮮明になっていく。

 

パウルはお調子者で後先考えない明るいノリの若者だ。


両親は直視できないでいるだけで、自分たちの子供がただの思春期・反抗期以上の何かであることに最初から気が付いていたように思える。父親は、自分の子供に対して距離を置きたがっている節があり、何かと母親に任せようとする。現実でもよくある話であり、家庭の気持ち悪いところあるあるだ。そんな父にとって、パウルの存在は非常に嬉しいものだっただろう。家族に1人男が増える。自分にとって"まとも"な男が。壊れた息子の代替品兼新たな友人がやってきたのだ。最初でこそ娘のボーイフレンドに対してフランクな父親、という役を演じるものの、父親はパウルばかりを気に入るようになる。当然家族は誰もいい気がしない。特にクルトは姉と性的な関係を結んでいることもあり、ある種の嫉妬心からパウルに対して強く反発する。


クルトは繰り返し、「僕は自分が生まれた時のことを覚えている」と言う。生まれ方の描写からしても、クルトは恐らくこの世界に出てくる事をギリギリまで拒み、母にしがみついていた。劇中、しばしば繰り返される音の一つに胎内音と思しきものがある。ゴーっとざわついた音と、母親の心音らしきものが聴こえてくることからも、クルトは母親の胎内に留まりたかった、戻りたいと考えていることが伺える。そのため、思春期を迎えてからは過剰なまでに大人になりたくない、大人の常識に染まらずにこのままでいたいと反抗する。


クルトは異常なまでに火に執着し、劇中度々マッチを擦って火を起こしては、フッと吹き消して床に捨てる。火を見つめる顔はどこか安らかで希望にすら満ちている。(すごくいい表情!手熱くないか心配した)火とクルトの関係はどこまでもエスカレートしていく。雀を燃やし、爆弾を作り、更には学校で教室に火をつけ顔に大きな火傷を負う。

 

そんなクルトは火傷した顔に薬を塗ってもらうことをきっかけとしてベッドの上で母に甘え、自らの体を触らせ、寄り掛かる。普段の反抗的な態度とは打って変わって子供のようになる。この時の恍惚とした目と甘えた声の演技がすごかった。センスだ。そしてその時、母は満更ではない表情を浮かべて息子を抱きしめる。ここにも一つの気持ち悪さがある。風俗の女が殺害された話ばかりする夫とはセックスレスであることが仄めかされている。息子を恋人のように扱いうっとりする母のソフトなバージョンはTwitterとかでもよく見るけど、普通に気持ち悪い。比企理恵さんの怪演もあってここの気持ち悪さは見事だった。


この息子は胎内回帰願望を抱いているけれど、母親は息子をある種性的なロマンスの代役にしている。お互いが相手のことを見ておらず、全く噛み合っていない。


家族とは言え、自己以外の人間は皆他人だ。例え自分の体からリリースされた生物であっても別の生命体なのであって想いを自動的に共有できるわけがない。恐らく母親は息子の考えていることなど何一つ分からなかっただろう。


母親は一つの幻想を持っている。自分の子供たちは、自分たちのためにメチャクチャに振る舞っているのではないか?と言うのだ。子供が問題を起こすことで夫婦の間に会話が生まれる。そのためにわざとこんな事をしているんじゃないかと。それで自分の顔に大火傷する人間がいるかよ目を覚ましてくれという感じだが、子供に対する◯◯かもしれない・◯◯してくれるに違いないという馬鹿げた幻想も家庭の気持ち悪いところあるあるだ。この作品は本当に気持ち悪いくらい家庭の欠陥への解像度が高い。そして、その気持ち悪さに自分も思い当たる節がある。


教室で火をつけたことでクルトは退学になり、いよいよ家庭は外の世界との接点を失う。同じ"思春期"の子供や、その子供を育てる他の家庭との交流は断たれ、外との接点は姉オルガの彼氏パウルのみだ。


火起こしをしたことのある人は分かると思うが、団扇の風や人の息を送り込めば酸素を得た火はだんだんと大きくなる。家の中で燻っていた火は、もう取り返しの付かないほどに燃えていく。


物語が進めば進むほど、セットの視覚的な効果が上手いなと感じた。セットがすごくいい。舞台右奥から客席下手側に向かってななめに伸びる通路を舞台の中央に配置し、それを挟むようにして上手奥にリビング、上手客席側にオルガの部屋、下手客席側にクルトの部屋、下手奥に両親の寝室が配置されている。舞台の奥が玄関であり、外から家に入ってくる人物はそこから現れる。つまり、玄関の真正面から他の空間にまっすぐ抜けていくように捌けることはできない構造で、入ってきた風は家の中でぐるぐると吹き回り、行き場を失う。意図的なものかはわからないが、象徴的だなと感じた。(ただし、クルトは舞台上手側手前から捌けるシーンがある。A〜C列くらいまでの一番上手側の人は大層ドキドキしたと思う)


火はいよいよ手のつけられないほどに燃え上がり、クルトは次々に放火を行う。あるときクルトは姉のオルガを伴い夜中に洋服の工場に忍び込み、クルトの作った爆弾で放火する。両親は息子が放火犯であることに勘付き、「明日警察に行こう」と語りかける。警察が、息子を守り、治してくれると思っているのだ。けれど、息子は直りはしない。クルトとオルガはその晩両親の寝込みを襲い、2人を撲殺する。


撲殺後、クルトとオルガは家に閉じこもって過ごす。クルトは異様なまでの落ち着きを見せ、お腹が減った、食料も尽きてしまったと訴えるオルガを「水でも飲めば?俺はそうしてる」と突っぱねる。大人になりたくないクルトにとって、生命の維持はもはや必要な事ではないのだろう。


しかしオルガはそうではない。弟のクルトを裏切り、外からやってきたパウルに助けを求める。クルトの反対を振り切ってパウルを家に入れるオルガ。パウルは、家に入るなりずっと閉めっぱなしか?などと家の空気が澱んでいることに触れる。そして異臭を放つ両親の死体を見つけるのだった。


両親の死について、クルトは「もともと腐っていた、今は寝ているだけだ」のように述べる。その通りなのだ。この家には元々大した中身などなく、関係は腐っていて、それが静かになっただけ。

 


閉めっぱなしでない、腐っていない、普通で、模範的で、幸せで、中身のある家族ってどんなものだろう。この人たちはどうすれば良かったんだろうか。もっとお互いに踏み込んだ対話をする必要があったと思うけれど、それが正解かは分からない。踏み込んだところでクルトのような人間が心を開くだろうか。

 


オルガはパウルと共に家を飛び出していく。彼女はなんだかんだ普通の大人になる側の人間で、同じく普通の大人になろうとしているパウルと一緒に生きていく事を選んだ。クルトは家と自らにガソリンをかけ、火を放つ。こうして、家族の物語は終わる。

 


クルトが「死んだ人間は冷たい。もう燃えてないから」と、繰り返すシーンがある。

生命力の象徴のように述べていた火は、小動物を焼き、自分の顔を焼き、物や建造物を焼き、最後には自分自身を焼き尽くした。焼き尽くされたクルトは当然、冷たくなり、もう燃えなくなったのだろう。クルトにとっての火は、何だったのだろうか。他者の体に宿る火を、自らが放った火で奪うことに対して、どう考えていたのだろうか。観終わってからずっと考えてるけれど分からない。


それくらい、クルトの狂気は正しく狂気として存在していた。台詞回し(抑揚など)はやや気になるところもあったけれど、この気迫や表情、目つきは紛れもなく北川拓実の実力と生まれ持った才能だと思った。技術的な部分がこれから伸びていくのが楽しみだ。


演出的な意図が汲みとれなかったものが2つある。


1つはクルトの部屋にあったヒトラーのポスター。時代設定などのことも考えたが、途中でスマホが登場したので現代だった。(現代だからこそ?)以前上演された際の劇評などではクルトがヘラクレイトスの思想に傾倒していることが書かれていたのだが、ヒトラーとクルトについてはよく分からなかった。そもそもが原作未読のため、元々あった描写なのかが分からない。読みます。


もう1つはマイクパフォーマンスのシーン。スタンドマイクであったり、手持ちであったり、とにかくマイクを使って叫ぶシーンの意味合いが理解しきれていない。最初は心の声、独白のようなものかと思ったけれど、普通に他の人にも聞こえてた。他の人の解釈を読んでみたい。

 

 

ところで私は北川拓実くんのビジュアルが大好きなので、イヤーッ!立ってるだけで綺麗!お姉さんとの身長差!!!助けてーっ!となった。複雑な年頃の男子、というのを視覚的にも伝える意図だったのか、しょっぱなからシャツの前開いてて腹筋とか見えたけど綺麗すぎるだろ…もっと丸いというか、がっしりしているイメージがずっとあったけど、すっかりスラっとした青年になっていて、見ていて緊張した。


終演後、深々とお辞儀をして顔を上げた瞬間いつもの北川拓実に戻ってニコニコしていたので最早怖かった。憑依型っぽいなと思ってたけど切り替えが凄すぎる。勝手に物凄く重たい役だし、気持ちが引っ張られすぎないか心配だなーとか思っていたけど全くの杞憂だった。あー可愛かった。


カーテンコールで何喋っていいか分からなくなり繰り出した一発ギャグ、体を上手側に向け、両手を地面と垂直にピンと伸ばして後ろに数を数えながら10回飛んで「バックテン!(バク転)」何…?さっきまであの表情で鬱々としながら爆弾作って放火しまくってた人間のやることじゃないだろ(褒めてる)あー可愛い。すごい。「一発ギャグやっていいすか?」に「この子こういう子?!」と客席に投げかけた納谷さんと一連の不思議な流れを暖かく見守ってくださっていたカンパニーの皆様。良い現場で育てられているのだなあと勝手ながら安心した。すごく難しい役どころだったけれど、良い環境で挑戦できたんだなぁと思う。


これから演技の仕事をしている姿ももっと見たい。まずは文豪少年!が控えているけれど、もっと色々なところに見つかって、舞台や映画で活躍してほしい。

 


人の成長は尊く美しい。けれどアイドルとヲタクは当たり前に他人同士であり、あんなことして欲しい、こんなふうに育って欲しいは劇中の母親に感じた気持ち悪さや自分自身が育っていく中で感じた気持ち悪さの根源でもある。


腐っていない家族や正しい人間関係が何かも分からないし、自分が生まれてきた理由もこの先の人生を進めていく意義も全く分かってないけれどしばらく芸術や好きなアイドルに寄り掛かって生きていこうと思う。私にとって自らの原動力になり得る火は何か、そしてその火を正しく使う方法は何か。重たい内容の舞台だったけれど、すごくエネルギッシュで観た後の興奮が冷めない。爆発力みたいなものがある意味美しくもあった。なぜか私は今すごく元気だ。ということは、「火の顔」は今の自分にとって必要なものだったし、とても良い舞台だったんだなと思う。


以上、北川拓実の初主演舞台、「火の顔」を観た話でした。