与太話

いろんな話

『机さする』の歌詞、怖すぎる

『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』、観ました。

 

『机さする』をサブスクで聴いて、旅から帰ってきて思い出を振り返りながら日記書いて、ああ帰ってきたんだなぁという感情を噛み締めるかのような歌詞に心を打たれ、電車の中で泣く大人と化したため。この曲について、映画を観て少し理解する必要があると思った。

 


おい、この歌詞Bメロ部分怖すぎるだろ。

仮に同じ種族のやつが見てなかったとしても、"誰か"は見てて罪はそこにあるってコト…!?


全体的にパニックホラー、サイコスリラーだった。ちいかわの島編、TLに誰かのRPで流れてきた時だけ読んでたけど、こんな話だったのかよ。


ヒトハはフタバに死んで欲しくない一心で殺人(魚)犯してまで煮付け作って食べさせたけど、フタバは永遠に生きる孤独への恐怖でヒトハに煮付け食わせただけ。


ヒトハの動機は、友達が死ぬのが嫌という利己的な部分あっても、フタバを助けたい利他的な部分がある。でもフタバは自分だけ永遠の命は嫌!っていうほぼ利己的な理由。

自分が永遠の命であることを他に知られるわけにいかない…という瞬発的な消去法でヒトハを道連れにしている。言ってしまえば「これから一生永遠を共にする友達はヒトハがいい」という意思決定ではない。もっと言えば、仮に選べるならヒトハ以外を選んだかもしれないよなー。

人間関係における感情の天秤が非対称なのって辛いね…。

 

この二人って別に相思相愛なわけじゃないんだろうな〜…と思ってしまったのは、船を漕ぐ時あまり息があってないから。逆にちいかわとハチワレは普段船漕ぐことなんてしないだろうに、お互いに掛け声かけて同じテンポで漕げる。ヒトハとフタバはお互い自分のテンポで漕いでて、あんまり意思疎通してないんだよな。それが心地よいって関係性も世の中にはあるとは思うけど。


ヒトハはかなりフタバのこと好きっぽいので、もしかしたらフタバが他の人と交流しにくくなって実質的に自分の独占下に置けてラッキーくらいに思っていたかもしれないけど、フタバはずっと何でこんな方法で助けたの、こんなことになるなら助からなければ良かったと思っている可能性すらある。


この後セイレーンに捕まるのは確実だし、捕まったらヒトハが「助けなきゃ良かった」と思うかもしれない。お互いを恨みながら、自分の選択を呪いながら、呼吸ができない水の中で永遠に生きるしかなくなる。生きるというか、ただ死ねないだけ。これから始まる「なんかずっと暗いとこ」の新生活は地獄だ。


ちいかわ視点ではもうセイレーンは「分かった」ので島民を襲わない認識だし討伐もできたから、ことの顛末と犯人をみんなに知らせる意味(メリットではなく、意味)ってほぼ無い。島民が襲われる原因を作ったという意味では罪だけど、人魚を食べたことがあのコミュニティで罪になるのかもよく分からない。多分ならない。元々セイレーン&人魚に対してみんなビビっていそうだったし。


島民を殺して食っちゃいました、だったらそれは言えよ、所属コミュニティにおける裁きのために…なんだけど、正直この状況では言わずに飲み込むのが巨悪かというと別に…じゃないか?しかもちいかわは二人がどうなるか知らないから、ずっと「言うべきだったのかな…」という心のしこりを十字架として背負う。これは結果論だけど。

 


ちいかわが告発しないのは教育によろしくない!みたいな憤慨って私にとっては正直よく分かんねーなと思った。(私はインターネットのボヤが大好きです)

 

討伐の対象を手にかけた、永遠の命を手に入れたこと自体は、この世界のルールに反してはいないのでは。結果的に島民が襲われる被害が生じたものの、直接的に誰かの権利を侵害したかと言われると微妙である…。ただ、この世界の討伐の対象ってどう決まるんだよという疑問はあるが。


総じて、相手のためと思ってやったことが必ずしも相手にとって良いこと・ためになることとは限らないし、悪いこと(人間視点)をしたらそれ相応の報いが待ってるという話であり、その点は十分道徳的な教訓を含んでいるのでは。

友情って何なんだよ…と重い気分になる時点でやや大人向けであることは間違いないが。


全体を通じて、邪悪な存在ではあるけど、セイレーンがデカくてムチムチしていて可愛かったし、島二郎がアキラ100%と同じ芸風でかなり健闘していて良かったです。

流行ってる映画って観るべきだな。

『82年生まれ、キム・ジヨン』感想

いつか読もうと思って温めていたが、ついにタイミングが来たので読んだ。仕事が休みのタイミングでなければ、読みながら発狂していたかもしれない。


女の人生に起こる嫌なあるある展覧会という感じで、日韓の文化の違いは感じつつも概ね日本の女性と同じような嫌な思いを韓国の女性もしているのだなと思った。


淡々と語られる、記憶の中に引っかかった棘の数々。同書に収録されている解説でも述べられているように、ジヨンの人となりが垣間見える描写は少なく、容姿について触れることはない。これが没入感と共感を引き出すために上手く作用している。更に、女性は全員がフルネームだが、男性は個人名でなく肩書きでしか登場しないのも見事なミラーリングである。日本でも、ライフステージが進むごとに女性は「〇〇さんの奥さん」「〇〇ちゃんのお母さん」として名前を失い記号化されていく。私は、自分の母親を眺めて幼いながらにこの現象を不思議に思っていた。個や存在ではなく、役割を表した肩書きに名前が置き換えられていくのはなんだか怖い。この恐怖の根源にあるのは、社会が定めてきた女性の役割に対する違和感であると今になって理解する。

 


生まれた時の性別が女であった人なら、この本の中で述べられていることのどれか一つには心当たりがありそうだ。本作が韓国におけるフェミニズム高揚の一つのきっかけとなったことは読めばあっという間に理解できる。Red Velvetのアイリーンがこの本を読んだと発言して炎上したというエピソードに当時驚いたが、本作の流行が一部の人にとって居心地の悪いことであるのも容易く理解できる。


女は揶揄って遊ぶためのおもちゃでもないし、自分や自分の親のために家事をしてくれる家政婦でもない。この小説が書かれるよりずっと前から、当たり前に感情と思考を持った存在であり、自分の思い通りになる存在ではない。もし、これまでの人生で全ての女性が自分の意のままに動いてくれていたとすれば、それは相手の我慢によるものでしかない。それはあなたの強さや偉さ、魅力を示すエピソードではない。多くの場面で相手は不快に思っていて、泣いていることもある。このような事実を突きつけられて憤慨するのは加害者たる証拠でしかないだろう。なにも、「こんなに不快な思いを少なくとも三代に渡って我慢してきたのだから、男は全員死ぬまで女のために働け、給料はやらないけれど気が向いたら私たちがお小遣いをやってもいいですよ」などと言っているわけではないのに。相手がずっと我慢してくれていれば都合が良かったのに、こんなものを書きやがって、こんなものを読みやがって、という思考の表出でしかない。


女性アイドルという「美しく、大衆の期待に応える人形」であることを欲される人物が本作に触れたのは、一部の人間にとっては脅威とすら感じられる出来事だったのだろう。

 


長年に渡り、無意識な差別や、意図的な軽いあしらいに尊厳を傷つけられた果てに、「次に息子を産めばいいよ」と言われ、自分のやりたいことは脇道に投げ捨てて周囲の望み通りではない子供を育てる。どこまで我慢すればいいのか先も見えない中、出先で見ず知らずの若い男から酷いスラングで詰られたらそりゃおかしくもなるだろう。主治医は臨床の観点からジヨンに寄り添っているように見えるが、本質的には無理解でしかないことが分かるラストはもはや恐ろしさすらある。

 


あいにく、結婚願望もなければ子供も望んでいないのだが、この思考は僅かながら確かに人生に存在したジヨン的経験によるものでもある。社会の一員として、子供が欲しいと思っている女性や、子育て真っ最中の女性、そして、今現在この世にいる女児のために何ができるのだろうなと考える。大きいものから小さいものまでいろいろあるだろうが、バスでの出来事でジヨンを助けた会社員の女性になることが直近の目標になりそうだ。会社員の女性が登場しなければならない場面など存在しないのが一番なのだが。どちらかと言えば理屈っぽく、気が強い方なので労働の文句は言うべき相手にはっきり述べつつ、困っている人がいたら助けたい。子供の読書感想文みたいだが、読後真っ先に思ったことである。

 


この本が書かれたのはもう10年前になるが、2026年の日本では、初の女性総理が僅かな自分の時間に寝る間も惜しんで裁縫やアイロン掛けをしているらしい。(高市早苗氏Xアカウント2026年7月20日の投稿より)女が外に働きに行きたければ、家事を完璧にこなしてからにしろとでも言いたいのか。全く馬鹿げた話だ。このようなエピソードを「偉い」「頑張っている」と評価する人もどうかしている。総理大臣ですら、家事の外注が認められず、このような"頑張り"が賞賛されるのなら、世の母親や一般的な女性の意思やキャリアが尊重される未来は遥かに遠いだろう。母や妻の役割が、神聖視という建前のもと軽んじられていることの象徴でしかない。


大人になっても、将来の夢が持てる世の中に早くなって欲しい。誰もが、特にこの世に生まれてきた全ての女の子が、やりたいことをやれるようになるといいな。

『汝、星のごとく』の原作を読んだ

松村北斗、よくこの役を受けたなーというのが第一の感想。

脇役だが、強烈なインパクトを残す久住尚人。読了済みの同担が既に何人も述べていそうだが、旧事務所の社長がかけられた嫌疑に近い状況に身を置かれ、最後には命を落とす役。よく受けたな。絶対病人の役やるために体絞ってると勘繰っていたけど、これなんだな。フィクションであれば辛い役回りやっている自担は見たい派。悲惨でしかないけれど、文を追っていく中で、このシーンはどんな表情なんだろう。どんな声で、どんなふうに喋るんだろうと想像が組み立てられていく。古のpixivのタグで見かけていた「脳内再生余裕」、というやつだ。しかし、こんな素人の脳にすぐ浮かぶものなんて軽々と超えてくれるだろうから、久住尚人を演じる松村北斗を劇場で観ることが楽しみだ。


第二の感想は、セックスと昔話と噂話と酒しか娯楽のないコミュニティは辛いということ。

これに関しては、あまり好きな表現ではないが完全に親ガチャ及び土地ガチャで、制御ができない。「手ぶらで生まれる子供と、両手に荷物をぶら下げて生まれてくる子供がいる。自分を助けてくれる親か、自分の足を引っ張る親か。」という作中の表現が端的で重い。機能不全家族のアダルトチルドレンでヤングケアラー。櫂も暁海もミスコミュニケーションの連続で、途中何度も「思ったことは小出しにして相手に言え!我慢できなくなってから言うな!」と叫びたくなるが、生育環境を通じて会得したコミュニケーションの型がガタガタな者同士の恋愛なので、最早本人の意思でコントロールできるものではないであろうことが辛い。この二人にとって、人生と人付き合いのベースがそもそも我慢なのだ。そして、自分は我慢している、と思いながら無意識に互いを傷つけ合っている。


このような前提条件で、マイナスを0、ひいてはプラスにしていくためには、シンデレラにとっての魔法使いのような存在が必要だ。この魔法使いは言うまでもなく北原先生で、この人がいなかった場合どうなっていただろうと考えるとさらに気が沈む。逆に言えば、北原先生という魔法使いが現れない人生はこの世に掃いて捨てるほどあるのだろう。


「初めての人しか知らないなんてもったいないよね」作中で、暁海が友人から慰めとして投げかけられる言葉の忌まわしさ。一方で、誰かの「お手つき」である暁海の島での扱いも描写されるため、短いながらに閉鎖的な環境をよく表した台詞である。若さと性行為の価値の重さと生々しさが都会と地方では異なる。

私はあれこれ言われるのが嫌で、親に普段の交友関係の一切を秘匿しているため、友達はほぼいないし彼氏もいたことがない設定になっているのだが、そのせいで母の友人から「この歳で男を知らないなんて可哀想、生きてて楽しいの?」と面と向かって言われたことがある。人生の比重を股に置きすぎだろう。この本を読みながら、地元や縁のある田舎で経験した嫌な思い出をいくつも思い出した。


それにしても、櫂にとっての暁海は「星」なのに、暁海にとっての櫂は「オム・ファタール」なのってあんまりじゃないか。確かに、櫂とは直接関係がなく、むしろ櫂から阻まれそうになった道でしっかり身を立てることに成功したので、櫂の存在は回り道のファクターだったのかもしれない。ただ、それ以上に櫂との関係は美しい思い出であり、人生の支えであったのでは?櫂は決して暁海の「人生を破壊する魔性の男」、ではなかったはずだ。散々振り回した結果、相手を「星」と表現する櫂もそれはそれでどうかと思うが、たしかに二人で過ごした時間の思い出や、相手の存在が目指すべき星の光のように人生の暗い時期を照らしてくれる話なので、やっぱり櫂は文才があるのだろう。

 

全編を通して、女性が経済的に自立することの重要性を書いているのが個人的には良かった。暁海が希望の進路には進めなかったものの最終的に夢を叶えて自分の生活を成り立たせたのは大きな救いだ。彼女と櫂の親の不幸は、自分だけの経済力では生きていけなかった点にある。専業主婦は上手くいっていれば生活を円滑にする制度だが、何か一つでも上手くいかなければ地獄に早変わりする。


それにしても、少し前に一部発言で話題になった横浜流星はこの作品をどう思っているんだ。「多様性、意味が分からないので」とのことだが、この作品の仕事を経ても「意味が分からない」だったのだろうか。スタンスは人それぞれだし、あくまで役の理解はただの仕事で、本人と切り離して考えるべきという論もあるだろう。役者の精神衛生上必要なスタンスであるとすら思うが、この作品の公開を控えているという点でやはり当該発言は大失言と言えるだろう。読後、発言が炎上した当時よりも失望した。「意味が分からない」人として、死んでいった登場人物のことはどう思いながら演技プランを立てたのだろう。逆に、映画の仕上がりがかなり気になってきている。


改めて映画のキャストを眺めたが、瞳子が石田ゆり子なの、いいな。普通にメロメロになってしまうだろう…

そんなこんなで、まぁ数回は観に行くだろう。映画『汝、星のごとく』公開、楽しみです。

『BUTTER』-「べき」という規範と逸脱

久々にキルフェボンのタルトを食べた。もう10年近く前になるが、店舗のそこそこ近くに住んでいたことがある。その当時はちょっとしたご褒美のような気持ちで、まぁまぁ頻繁に食べていた。クリスマスには、友人をかき集めて限定のタルトを3台も買い、みんなで食べたこともある。でも、今住んでいる土地はどの店舗からも離れているし、その中で一番近い店舗にはイートインがないのだ。

久々に私の胃に入ろうとするタルトは、こんなものだったかと思うほど小さかった。本気を出せば三口、いや、二.五口くらいで食べてしまえそうだ。少し切り分けて口に運ぶ。唇の近くにやってきた時点で濃厚なバターの香りが鼻をつく。口に入れると、甘く濃厚でほんのり塩気を纏ったタルト生地と甘酸っぱい苺が瞬く間に溶け合う。これほどまでに強い味なのに、重たくなく、胃もたれを起こさないのは不思議だ。ルガールのバターを使っているらしい生地は、適度な硬さを保ちながらほろほろと崩れ、あっという間に私の胃袋に飲み込まれていった。


バターと私

バターというのは、本当に素敵な食べ物だ。

幼い頃から乳製品が大好きだ。中でもバターは特別好きだ。血縁者に糖尿病患者がいるし、私自身も太りやすい体質だから、両親は私がパンにバターを塗るのをいつも目敏く監視していた。「そんなに塗ったらもっと太るよ!」幼いながらに、もう太っているのだから放っておいて欲しいと思ったけれど、あの時素直に従っていれば今こうなってはいないのだろう。けれど、いくら両親からヒステリックに咎められようと、私はバターが大好きだった。

 

BUTTER|柚木麻子 を読む

私の書いたいくつかの文を複数のAIに読ませて、おすすめの小説を提案させた。大抵は有名どころの作品が出てきて、中にはもう読んだものもあったし、読みたかったけれど後回しにしていたものもあった。その中の一つが、柚木麻子の「BUTTER」である。せっかく読んだので、クソ真面目に感想を書くことにした。

BUTTERの主人公である里佳は週刊誌の記者として、殺人容疑がかけられている梶井真奈子という女を追いかける。この梶井という女は、木嶋佳苗がモデルになっている。

比較的お金のある男性を何人も手にかけたという罪状から、一体どんな美人かと思ったら太っていて冴えない、傲慢な女。一体どうしてこんな人物が次々と男を手玉に取り、殺しおおせたのか。

作中、梶井の手は「ぷくぷくとした指」と描写される。一方、華奢で長身な里佳の手は、パサパサに乾燥し、ささくれ立っている。どんなに取り繕っても手は誤魔化せない。そして指がぷくぷくしているのは、太っていることの証だし、私が脚に次いでなるべく写真に写したくない部位の一つである。

 

美食と変容

里佳は梶井との面会を重ね、次々と梶井から指示を受ける。最初は「バター醤油ご飯を食べなさい」というものだ。ああ、私も大好きな食べ物だ。バター醤油ご飯。この女の舌は信じられる、と思ってしまった。

とびきりおいしくて、とびきり太る、他人の目を盗んで食べるべき物。脂質と塩分と炭水化物。生物が必要としているエネルギーがギュッと茶碗に込められた食べ物。美味しくないわけがないのだ。これを口にしてから里佳は、どんどんバターと梶井の虜になっていく。まるで、梶井が操作するRPGの主人公のように、次々と梶井が指示したものを食べる。外食はもちろん、自ら料理もするようになる。梶井の食べ物にまつわる思い出を舌でトレースし、それを手がかりに会話し、彼女の足跡を辿る。

こってりとした、手のかかった料理。こんな贅沢なものを男と食べていたのか。梶井はこんなものを男に作ってやっていたのか。出てくる料理の全てがとにかく美味しそうで、文を追うごとに口の中に味が広がるような気がしてくる。作中で、素材の組み合わせがなんでもありと評されているロブションのコースだけはどうしても味が想像できず、実際に食べに行くしかないのではと思った。頭の中にどんどん食べたいものがストックされていく。こちらも、里佳と同じように梶井が語る美食の虜になっていく。

そんなことを続けているうちに、里佳はどんどん体重を増やしていく。BMIでは普通とされる範疇にいても、元々スレンダーだった里佳は、だんだん周囲から「デブ」として扱われるようになる。元々里佳自身、梶井の体型を見下しているような描写がやや目立つが、気が付いたら自分も梶井と同じ側に立っている。いつしかカサカサだった手は、丸みを帯び、脂で艶やかに変わっていく。

 

「べき」という思考

里佳がたったの一時期味わった侮蔑を、梶井はずっと受け続けてきた。太った里佳が意にそぐわない態度を取れば、周りの男性の態度は一変する。「デブったくせに」「努力が足りない」などと、容赦ない言葉を浴びせる。恋人にすら詰られる。その上、取材のためだと述べれば「それなら太ってても全然構わないよ」と許可が出る。一体何様なんだろう。身体の所有者は、本人ただ一人であるはずなのに、他人があれこれと「それはだめだ」「これならいい」まるで自分のものかのように口を出す。この小説には、多くの「こうあるべき」と、そうでなかった人物へ向けられる非難と、他者をコントロールすることへの願望が容赦なく詰め込まれている。

梶井がなぜ世間の気をこれほどまでに引くのか。それは、人々が無意識に内面化させている規範を逸脱し、得をした「許せない」存在だからだろう。自分がこうあっては許されないはずだ。しかし、そのような規範を悉く破り捨てているこの女は多くのものを手にしている。何故か。自分が必死に我慢していることを、この女は我慢しない。平たく言えば「ずるくて羨ましい」のだ。例えその成果が破綻し、逮捕されたとしても、本来見下されるべきステータスの人間が、気の向くままに人を弄び、贅沢な生活を送ってきた。そして、捕まった今もなお堂々と、太々しく持論を展開している。この許せなさが人々の興味を駆り立て、一部の人は彼女に羨望の眼差しすら向けるのだ。

 

梶井真奈子という女

幼い頃から特異な家庭環境に置かれたことで同性との距離感を学習できず、年上の男性としか関わりが持てなかった梶井。彼女の躓きと恐怖が少しずつ明らかになっていく。そして、彼女を追いかけるうちに、里佳自身も周囲の人間との関係に躓き始める。しかし、里佳は上手く周囲の手を借りてしっかりと立ち直っていく。この様子を通じて、梶井のありふれた部分と異質さが同時に浮き上がってくる。

「私が欲しいのは崇拝者だけ。友達なんていらないの。」とても印象的なセリフだが、これは梶井が常に感じていた恐怖の裏返しでもある。

梶井は常に関係した男性たちの女神であろうとした。男性たちも梶井を崇拝した。しかし、少しでも彼らの期待を裏切れば、彼らは忽ち手のひらを返すだろう。どうあるべきか、常に神経を尖らせ、怯えていた梶井は哀れだ。彼らの「こうあるべき」に応え続けなければならない。気ままに贅沢をしているようで、彼女はあまりにも多くのものを差し出している。

そもそも、手の凝った料理を真面目に作り続けることなんて、私には到底できそうにない努力だ。技法の習得、買い物、食材の適切な管理、下拵え、考えただけで気が遠くなる。これらの行為が、女の提供する家事労働だからといって、何ら対価を払わずに得られるというのはおかしいだろう。しかし、梶井の手にかけられた男たちは「いつか、自分の面倒を見てくれる存在が現れるべきで、そうならない世界はおかしい。」という甘えた態度で口を開けて待っている。

基本的に、梶井は努力家だ。ただ、生育環境から自己認識が狂っていて、その努力の方向が時としてかなりズレている。そして、彼女は誰にも本音を話したことがない。常に取り繕っている。ここが、梶井と里佳を分かつポイントだ。

 

料理

料理は、結局のところ生き物の死骸を上手く管理し、組み合わせることだ。この小説に描かれる料理は、誰かを生かすものであり、殺すものでもある。その恐ろしさはしっかりと描かれる一方、バターが調理の過程で食材と食材をつなぎ合わせるように、食べ物が人と人とを結びつけていくことも描かれる。

梶井はきっと、大勢でクリスマスケーキを囲んだことも、誰の取り分が多いとか少ないとかで揉めたこともない。梶井が置かれた状況や、コミュニケーションの困難さから、料理を通じて繋がることのできた人の範囲は、ごく狭いものだった。梶井がどんなに手をかけて作った料理であっても、そこに大勢の人を呼ぶことは構造的に叶わなかった。

 

「 べき」からの解放

梶井を追いかけることを通じて、規範から解き放たれていく里佳は、周囲の人とぶつかりながらも、より深く相手を知り、人との交流を持ち、自由になっていく。読み手は里佳と一緒に梶井にのめり込み、騙され、驚かされ、哀れみ、やがては興味が薄れていく。その体験がスムーズに味わえて楽しい読書だった。里佳と私がどんどん変わっていく中で、梶井だけはずっと一点にとどまり続ける。世の女はこうあるべき、私はこうした。梶井の主張はそこから動かない。動けないのだ。

登場人物誰もが完璧ではなく、互いをずるいと感じたり心のどこかで非難している。痩せているべき、控えめであるべき、男に尽くすべき。沢山の「べき」を外し、自分を見せ、相手をしっかり見ることが肝要だ。それは、相手が投げかける評価や期待をそのまま受け入れることではない。自分自身に境界を引きながら、相手との適切な距離を測り、互いに覚えていくことだ。事件の顛末よりも、人との交流に着地していくのは意外ながらも納得感があった。思い切って「べき」を外し、しっかり相手の懐に飛び込むこと。美味しい料理は、それを少しだけスムーズにする。


いつかまた、ホールケーキを大勢で囲みたい。そのために、私も少しずつ余計な「べき」を外して、自分を許していくことが必要だろう。人を誘ってもいいし、大きいケーキを買ってもいいし、決してほっそりとしてはいない丸みを帯びた手が写真に写っていたっていい。逆に一人で食べてもいいし、指を細くする努力をしてもいい。私も、そのうち里佳のように、年齢やキャリアの変化によって揺れ動きながら「べき」という他者視点の欲ではなく、「こうありたい」という自分自身の純粋な願望を見つけるのだろう。

濃厚で重たい展開とは裏腹に、爽やかな読後感だった。ただ一つ不満があるとすれば、バター醤油ご飯を孤独の象徴として扱っているところだ。あんなに美味しい食べ物を。私だって、自分のことをあれこれ詮索されたら言うだろう。「バター醤油ご飯を食べなさい」話はそれからだ。バター醤油ご飯に、納豆を乗せても美味しいよ。

生き延びることは幸福か?ヘッダ・ガブラーとの比較で読み解くジン・ロック・ライム

※ジン・ロック・ライムのネタバレあり感想。

これはハッピーエンドなのか?

ジン・ロック・ライムを二度観劇した。

初回から二度目を観るまでの間ずっとラストシーンについて「これはジンにとってのハッピーエンドなのか?」と頭を悩ませた。エートがジンに求める「ちゃんと生きる」「自分を大切にする」とは、具体的にどういうことで、ジンはどう振る舞えば「ちゃんと生きてる」と思ってもらえたのか。

この結末は、今の社会が、作り手が、ジンに望む姿なのだろう。実際に劇作家の山本卓卓氏がパンフレットの中で「どうしても死んでほしくない」「生き延びてしまうことの衝撃」と述べているが、この作品世界の中でジンは死すら許されない立場なのだと思うと、正直息苦しかった。

商品として大衆に差し出され、常に監視される立場にあるスターは、非常口としての死に駆け込むことすらも最早許されないのか?この後、ジンはどうやって生きていけば良いんだろうか。誰もが軽い気持ちで、遊びのつもりで人の人生に口出しする世の中で、彼に起こった出来事とこれからの彼は一体どう見られるのか。死すらも奪われ、商品としての生を続けていかなければならないのか。

二度目の観劇では、かなり序盤からジンが終盤にとってしまう行動を具体的に仄めかすセリフが散りばめられていることにも気づく。コマが死にたいと思ったことがないのと対照的に、ジンは常に、死という選択肢が見えている。なのに。この結末は、彼にとってどういう意味を持つのか。考え込んでしまって気分が落ち込んだ。

ヘッダ・ガブラーを読む

ジン・ロック・ライムは、ヘンリック・イプセンの「ヘッダ・ガブラー」の翻案である。観劇後数日に渡り悩んでいた私は、ジン・ロック・ライムをきちんと咀嚼するにはヘッダ・ガブラーを理解する必要があると思い、Kindleで購入してみた。

注釈がかなり多いため、電子書籍で購入して正解だった。

まず、ヘッダ・ガブラーの登場人物は以下の通り。

  • イェルゲン・テスマン 学者。ヘッダの夫。
  • ヘッダ・テスマン夫人 タイトルであるヘッダ・ガブラーは彼女の旧姓名。新婚旅行を終えたところで、イェルゲンの子を妊娠している
  • ユリアーネ・テスマン嬢  イェルゲンの叔母。未婚。寝たきりの妹がいる。
  • エイレルト・レェーヴボルグ テスマンと同分野の学者であり、大学教授の座を争っている。ヘッダの元恋人。ヘッダは別れ話の時にピストルでレェーヴボルグを撃とうとした過去がある。
  • エルヴステード夫人  ヘッダの女学校時代の知り合い。村長である夫と、夫の連れ子と暮らしていたがその生活を捨て、レェーヴボルグを追いかけてヘッダの暮らす街へ家出してきた。レェーヴボルグの研究を共同執筆という形で手伝っている。学生時代、ヘッダにいじめられていた。
  • 判事ブラック ヘッダの現在の浮気相手。ヘッダとイェルゲンが住む家を手に入れるための手続きを手伝った。
  • ベルテ テスマン家の女中。元はテスマンの叔母の家に仕えていたが、イェルゲンの家で仕えることとなり、自分がヘッダのもとでやっていけるのかを心配している。


とにかく出てくる男がみんなヘッダを好きなのだが、ヘッダが彼らを想いのままにしているかというとそうではない。ヘッダと彼らの間に愛情と呼べるものはなく、あくまで男性の遊びや暇つぶしに使われているに過ぎないという印象を持った。

ヘッダは夫のことを愛してはおらず、レェーヴボルグのために家出してきたエルヴステード夫人に激しく嫉妬する。夫の目を盗んでブラックと親密な会話を交わしたりするものの、心が満たされることはない。ブラックが開いたパーティで泥酔したレェーヴボルグは、自身が執筆した本の原稿を落としてしまう。この原稿はレェーヴボルグの学者としての将来がかかったものであり、エルヴステード夫人とレェーヴボルグの共同執筆である。いわば、二人の子供のようなものでもあるのだ。絶望したレェーヴボルグはヘッダが渡したピストルによって、ある場所で不慮の死を遂げる。実はこの原稿はイェルゲンが拾って家に持ち帰っているのだが、ヘッダはそれをストーブに放り込んで全て燃やしてしまう。ブラックはレェーヴボルグがヘッダのピストルによって亡くなったことをヘッダに告げる。ピストルの持ち主が明かされたらどうなるだろうとヘッダに揺さぶりをかけるブラック。誰からも求められず、社会的な生殺与奪をブラックに握られ、もはや自身の身に自由はないと悟ったヘッダも自身のこめかみをピストルで撃ち抜き、この世を去る。

以上が1890年に描かれたヘッダ・ガブラーの物語である。


社会という檻、変化という恐怖

ヘッダは、当時の男性中心社会と、その中に築かれる家庭という二重の檻に閉じ込められている。ヘッダの夫は、叔母にヘッダとの結婚をこう語る。「しかも相手はヘッダ・ガブラー! 美しいヘッダ・ガブラー。どうだろう。あの人の周りは、崇拝者でいっぱいだった!」

ヘッダは高名な将軍の美しい娘として生まれ、中流上層階級である学者のテスマンと結婚したのはいわゆる下方婚に近い。暮らしぶりは比較的裕福だが、決して自由ではない。何より夫を愛していない。そんな彼女の身分はあらゆる男性から品定めをされる「高名な将軍の娘」から、「学者の妻」になり、今まさに「母」へ移り変わろうとしている。劇中、彼女は一見自由に振る舞っているようで、周りの目や自身の変化に怯え、疲れ果てているようにも取れる。そもそも好きでもない男と結婚して、6ヶ月もつまらない新婚旅行に行って帰ってきたばかりなのだから疲労困憊だろう。

彼女は自身の妊娠に否定的で、妊娠に気付いたイェルゲンの叔母が彼女をいたわるような発言をしてもそれを大層不快そうに跳ね除ける。タイトルのヘッダ・ガブラーは彼女の旧姓名であり、「高名な将軍の娘」である一個人からの変化を拒むんでいるように感じられる。少なくとも、ヘッダはイェルゲンの妻という身分を心の底から受け入れてはいなかっただろう。

ジン・ロック・ライムのパンフレットにおいて、彼女を「不自由なく暮らしている」と表現する部分があるが、ヘッダを表すにあたってはやや不適切な表現でないかと思う。彼女の内心は常に不自由であるからだ。

 

対してジンが閉じ込められている社会の檻は、時代の変化によりヘッダのそれとは異なっている。ロックスターとして求められる役割と、それに応えても応えずとも浴びせられる非難。求められる役割と内心の乖離という点では構造がかなり近しい。また、ジンは所属事務所の社長が自身の妻であることから、労働と家庭が重なっており、ステージにいる時にもステージを降りてからも常に同じ人物に手綱を握られていることになる。社会、労働、家庭の三重の檻に入れられた上で、多くの衆目に常に晒され、その反応がインターネットを通じて常に浴びせられることのストレスは想像を絶するものだろう。

ジンは酔っ払っておどけながらも「時代の変化」について何度か言及する。求められるロックスター像や音楽の役割の変化によって、自分の音楽や自分自身がゴミ箱に入れられる恐怖が常に彼を脅かしているのだと思うと、なんだか同情してしまう。それこそ劇中で「これ、ゴミだわ」と彼が自身の書いた小説をゴミ箱に放り投げたように、彼自身もいつ大衆から「ゴミ」「オワコン」として投げ捨てられるか知れない。実際、彼は今音楽ではなく炎上で注目を集めている。かつては多くの人が純粋に彼の音楽を求めていたのかもしれない。しかし、今注目されているのは彼の突拍子もない言動だ。これは演じている髙木雄也自身が持つ人としての絶妙な可愛さにかなり絆されている部分もあるのだが、そんなプレッシャーに晒されて普通でいられるわけがないと思ってしまう。

酒やドラッグに逃げ、周囲の人間との対話からも「曲を作る」と芸術家仕草に逃げ、最終的に人生の袋小路から非常口に駆け込んでしまう彼は、確かに真っ当ではないかもしれない。ただ、私はどうしても"ダメ人間"とは思えないのだった。同じ状況に置かれた自分がまともでいられる自信がない。

同じように、私はヘッダのことを"悪女"だったとは思えない。意地悪で、嫉妬深い人間だったとは思うが。彼女を悪女として断罪し、散々人を振り回して勝手に死んだ訳の分からない人物として論じるのはナンセンスだ。彼女を暇つぶしに良いように使って投げ捨てた男たちと同じ立場に立つ論でしかない。

一見思うがままに振る舞っているようで、実際には檻に入れられ、他者の視線を浴び、逃げ場を無くしている構造を共通させることにおいて、ジン・ロック・ライムの翻案はかなり上手いと感じた。

死の予行演習と暇

ジン・ロック・ライムでは「暇」という言葉が随所で印象的な使われ方をしている。彼が「暇」なのは、すべきことから逃げているから。ありとあらゆることに向き合う恐怖を酒で誤魔化してヘラヘラすることで、どうにか生きている、自分で漕ぎ出すこともなく、ただ船に乗って流されているだけのような状態だ。ショウコが自分たちの状況を滝の手前にいると表した例え話が印象に残っている。

檻に入れられている彼は、常に衆目に晒され、期待する役割を演じているのか、ただ無力に見られるがままの状態に自信を差し出しているのかよく分からなくなっているのではないか。彼が自身の本音のような、"世間が求める俺の発言"のような言葉を発した後に「冗談」と言って誤魔化すシーンは何気ないものだがとても悲しかった。

ここから自力で立て直すことは実際かなり難しいと思うし、ショウコが夫婦でカウンセリングを受けることを提案するのは理にかなっているだろう。しかし、ショウコが"夫婦で"と言っているのは、おそらくジンとエートが過去に恋人関係にあったことを打ち明けられたことによるショウコ自身の動揺や、ジンのアルコール依存という症状に着目しているのであって、ジンがこうなっている根本原因に目を向けているものではないのが悲しいすれ違いだ。おそらくジンもどうにか助かりたい気持ちがないではないので「いつにしようか?」に「今日」と答える。実際、あの日カウンセリングに行けていたら少し違ったのかもしれない。

ヘッダ・ガブラーでは、ヘッダがピストルを構えて戯れに撃ったことをブラックに嗜められるシーンがある。ここでヘッダは「じゃ、いったいどうやって暇をつぶせって言うの?」と嘯く。一見気ままに振る舞っているようで、他者に向き合わず、真に自分を満足させることができない行動ばかり取る人間の「暇」。自身の人生の行き止まりをどこかで感じつつ空虚な時間を過ごし、いっそ全部めちゃくちゃになってしまえとすら思いながら死の予行演習をする。ジンはそれが酒で、ヘッダにとってはピストルをいたずらに撃つことだった。

戸越がジンを撃とうとする素振りはこの舞台の序盤に大きな緊張感をもたらしている。戸越は暇ではないが、結構本気で「こんな奴死んでしまえ」と思っていそうだ。コンプライアンスに厳しいお利口さんが、苦しみから逃れるため他人の死を願っている毒々しいシーンだ。

大きな子供

個人的にジン・ロック・ライムの怖いところとして、家庭での子供の影が薄すぎるというところがある。ジンの息子であるユウタは、お迎えが必要ではあるが漢検を受けて合格するくらいの年頃なので小学校中〜高学年くらいかと思われる。

ショウコ曰く、ジンは明るい時間から酒を飲んで酔っ払っても暴れたりはせずただニコニコ笑っているらしいし、ユウタに対しても手をあげたり声を荒げたりすることはないのだろう。良い父としての役割をそれなりにやっているのかもしれない。ただ、視覚的にユウタが排除されている舞台の上で、ジンは窓越しにクイズを出したり、仕事のためにやってきたコマにノンアルと偽ってジンを飲ませる悪戯を仕掛けたりと、まるで子供のように振る舞う。

ジンは、この家の大きな子供なのだ。

ユウタは、祖母でありショウコの母であるアキコに「頭の良い子」と言われているが、元々の素質がそうであるだけでなく、「頭の良い子」として振る舞う必要性を理解している子どもなのだろう。自分より手のかかる大きな子供がいる家で暮らしているのだから。ショウコがユウタにYouTubeを禁止しているのも、ユウタを守るためと言いつつ本当はユウタとジンの衝突を避けながら、結局は大きな子供であるジンを守るためではないか。

ショウコはなんだかんだジンの世話を焼くことをやめられない。アキコのように「忘れっぷりが良い」ということもなく、ジンの一挙一動に振り回されている。戸越がジンのマネージメントを外れたいと言った後、彼女はミーティングで「最悪私が」と述べるが、従業員の否定的な反応を感じ取ったのかその話をうやむやにする。本人は気づいていなさそうだが、ジンとショウコの関係は共依存に近いだろう。

嗅いだことがないので知らないが、ホムラが「私大麻の匂いってムリ」と言うように、匂いのあるものを吸っているジンに気づかない訳ないのではないか。また、仮に大麻の使用を知らなかったとして、ジンがアルコールに依存しているのを知りながら、朝から飲める環境を許している。ダメな彼、でもそれがたまらなく愛しい私。ショウコは家庭と仕事という檻の看守でありながら、ジンを正しく管理することを放棄し、破滅に向かわせている側面がある。彼の人間的成長を拒み、無邪気なままでいさせようとしている。

なお、終盤ジンが寒がっているのは大麻による身体反応だが、どうやらこの寒気という反応は大麻の作用として誰にでも現れる類のものではないらしい。厚労省のHPに掲載されている「大麻問題の現状」という資料(https://www.mhlw.go.jp/content/11121000/001330733.pdf)で、報告が稀な症状の例として挙げられている。不謹慎だが、このシーンでマフラーを二つ巻いてモコモコになっているジンは可愛い。

ジンが「見られているようでやだ」と外した、奈良美智の絵はショウコの父である先代社長がショウコに似ているからと背伸びして買ったものだ。ショウコに似ている女の子が睨みつけているような絵。本来ショウコもジンを甘やかすのでなく、睨みつけるくらいしても良いのかもしれないが、そうしない。あるべき姿とのズレも居心地の悪さに繋がっているのではないか。

ヘッダ・ガブラーのセットには、ヘッダの父の肖像画が飾られている。思えばヘッダがいる檻はこの父のもとに生まれた時から存在している。ヘッダもまた、娘から妻や母への変化を拒み、子供でもしないような悪戯をし、思ったことを奔放なまでに口に出す大きな子供である。

ジンは事務所に入り、ショウコと結婚し、気づけば檻の中にいた。檻に入れた側の人物の眼差しが形になった存在のようで、絵というモチーフの使い方も上手い翻案と感じた。

それにしても、この環境でユウタが祖母のアキコに懐いてないってどういうことなんだ。

あと、ジンがエートに宛てた手紙を、エートが「子供」と表現するのはヘッダにおいてレェーヴボルグの本の原稿がレェーヴボルグとエルヴステード夫人の子供と表現されていることから来ているのは明らかだと思う。

ただ、この言葉を実の妻との間にある程度のサイズまで育った子を持つジンに向けて使うのはなかなか残酷だ。手紙はあくまでジンが書いたものであってエートとの共同作業によるものではない。共に育んだ子供とは言い難い。それを突き返すことはジンにとって強烈な拒絶かつ現在の自分自身に対する否定にも思えたのではないか。

居心地の悪い居住空間

ジン・ロック・ライムの舞台美術や演出が見事だなと思う点の一つに、ライブシーンから事務所へのセット転換がある。照明がスーッと引き上げられて、舞台の奥からマンションの一室がにゅ〜っと迫ってくるこの気持ち悪さ。この場面転換の見せ方からして、この部屋が居心地の良い場所ではないことを予感させる。

ヘッダ・ガブラーはヘッダとイェルゲンの邸宅が舞台であり、ジン・ロック・ライムは事務所兼制作部屋になっているマンションの一室が舞台だ。それぞれの主人公が閉じ込められている家庭という一番小さな檻を視覚的に表していると思う。ヘッダはこの檻から出ることはないが、ジン・ロック・ライムは檻の外にあるステージに再び場面が移り、客席と地続きのまま終劇を迎える。これは、緞帳が降りて終わるのよりずっと効果的で、都会のど真ん中にあるPARCO劇場で観劇できたことも良かったなと思った。ジンがこれから戦っていく世界の中で、私たちも生きていくんだという気がした。

"手に入らない"から"欲しい"

ヘッダは夫の幼少期のエピソードや夫の親族に対して無関心であることを隠さない。しかし、世間の目を完全に無視する訳でもなく、夫の叔母に対してばつの悪い思いをすれば彼女を夕食に誘って機嫌を取ろうと提案する。ヘッダは、現在夫と住んでいる新居を浮気相手であるブラックの力を借りて手に入れた。しかし、寝心地がどうだったか尋ねられると「まぁまぁ」とさして満足してもないような回答をする。手に入れてしまったものはもう彼女の欲求の対象ではないのだろう。

浮気相手のブラックや、かつての恋人であったレェーヴボルグすらも、今手に入らないからこそ欲しているのではないか。

ヘッダは、イェルゲンとの結婚生活を前向きに捉えていないが、そこから逃げ出すこともしない。一方でエルヴステード夫人はレェーヴボルグを追いかけて、夫や子供を放り出し家出してきている。ヘッダはエルヴステード夫人に激しく嫉妬する。

レェーヴボルグの死後、イェルゲンはエルヴステード夫人に原稿の執筆メモをまとめてもう一度原稿を作成することを提案する。イェルゲンとエルヴステード夫人の間に、レェーヴボルグの研究を再生させる作業を通じて特別な関係が芽生えるであろうことが示唆される。ヘッダは学者であるイェルゲンの研究に興味がない。イェルゲンとエルヴステード夫人が研究に勤しむ間、ヘッダはブラックにでも相手をして貰えば良いとあしらわれる。完全な除け者である。ブラックには、ヘッダがレェーヴボルグの死に関与したことを世間に明かすかどうかの選択を握られている。

ヘッダに自由はない。ヘッダは他人を弄んで手に入れたつもりでも、結局のところ何も手にすることができなかった。

一方、ジンは他人を恋愛関係で弄ぼうとしているかというとそうではない。エートとの関係性は「順番を間違っちゃったんだよ」と表現するし、ショウコとユウタが大切で、それぞれの関係に順位をつけられないというのも彼の本心から出た言葉だと思う。しかし、エートに新しい恋人ができて、海外で入籍することも考えていると知った今、もう二度と自分のものにはならないエートを欲している。手に入らないからこそ、欲しいのだ。

ヘッダと違い、ジンには音楽がある。共作をもちかけるが、エートはジンの創作について「昔の自分のヒット作の焼き直し」と吐き捨てる。パーティーで、ジンはエートの曲をかける。おそらく二人が親密な仲にあった頃に書かれた曲だ。歌詞を書き留めていないので、かなり正確さを欠くが「裸で大理石の床に寝転ぶ」ような表現などがあり、おいおいめちゃくちゃ性行為ソングじゃねーか?と思った。このシーンでショウコが吐き気を催しているのもそのせいかと思う。

私はショウコのジンに対する関わりについて、全肯定できるものではないと思っているけれど、実際のところショウコは可哀想すぎる。経済的には何とかなりそうだけれど、ユウタのためには別れたくないだろうし、そもそもショウコはジンを好きだから。だからこそ、自身と婚姻関係にあるジンの気持ちがエートに向いていたことを知りながら、社長として何食わぬ顔をして振る舞ってきた期間はショウコにとって本当に辛いものだっただろうと思う。このシーンのジンは、ショウコにとってはあまりにも無配慮で残酷だ。

今となっては二度と手に入らないであろう、エートの愛。持っていないからこそ渇望するのだ。ジンの周りに愛がない訳ではない。ただ、ジンは恵まれながらも絶対に手に入らないものが欲しいから飢えている。

両作に見るアイデンティティ

ヘッダ・ガブラーの劇中、ヘッダの古いピアノが登場し、ヘッダはそのピアノについて「他の家具と馴染まない」と述べ、自殺する前にはこのピアノを激しく弾く。実家の父の財産で買ったと思われるピアノは、彼女が「ガブラー」であったことの証でもある。

ジン・ロック・ライムでアイデンティティを意識させられるモチーフは庭のライムの木だ。本来、先代社長が自分のルーツに縁のあるカボスの木を植えたかったところにやってきたライムの木。植木屋さんがあんまり良い人だから強く言えなくて、そのまま植えられて時期がくれば沢山の実をつけるほどに大きく育ったライムの木。自分がされたミスは許す一方で、牛骨スープのくだりでは生涯誓いを立てて牛肉を口にしなかった。他者への寛容と、自分への厳しさ。この線引きが先代社長は上手くできていたという描写でもあるだろう。

ジンがメモに書いた、「殺す。愛しているから、殺す。」というフレーズ。ここで殺すのは、おそらく自分自身だと思う。ジンは、エートのことも、ショウコのことも、息子であるユウタのこともみんな好きだ。ただ、エートを愛した過去と、今もなお好きだと思う気持ちは殺さなければならない。妻には知られているが、世間に知られる訳にはいかない。息子にも知られるわけにはいかない。ミュージシャンとして、夫として、父として、求められる役割をこなすためには、殺さなければならない自分がある。

一方で、自分のアイデンティティをこれから曝け出そうとするエートと、異性装に身を包み歯に衣着せぬ発言で人気を博してるホムラはジンにとって脅威だろう。「時代の変化」の一言で受け入れることは難しいのではないか。特に、ホムラはアイデンティティそのままの在り方がファンに受け入れられているという点で、ファンが眼差す自分とのギャップに苦しむジンにとって耐え難い部分があったのではないかと思う。実際に、エートの恋人は全くの別人であるが、「ホムラとももうやったんだろ」と当て付けのように2人の性的な関係を憶測するセリフがある。ここは本当にそう思っているというより単なる当てつけで、ホムラに対する苛立ちが表現されているのだと解釈した。

先代社長もある意味で、カボスの木を諦めることで自分のアイデンティティを諦めていると思う。自分にとって重要なカボスの木は、他人から見ればライムやその他の緑色の柑橘類と一緒くたにされるものでしかない。ただ、その諦めと許しが後々ジンの命を救うことに意味があるように思う。

引き金を引く人間

ジン・ロック・ライムでジンに対する引き金を具体的に引いたのはホムラだ。

告発文をSNSに載せた。実際ホムラからすれば、エートのSOSに応えて事務所にやってきたら社長は狼狽えてるし、ジンは荒れているし、空気を変えるためにパーティーを開いてカットフルーツを差し入れても、そのうち社長は部屋を飛び出し、ジンは大麻を吸い出してめちゃくちゃになるしで碌なことがない。エートが上下関係の中で大麻を強要されていると感じても仕方がないだろうし、そのほか色々「大切な人が傷つけられた」と感じる要素はあっただろう。

序盤、自分が殺人鬼役のオファーを受けることでSNSが荒れて似たアイデンティティを持つ人が攻撃されてしまうことを懸念していたホムラが、自分のSNS投稿によってジンを絶望させるのはなかなか業が深いと思う。殺すつもりでなかった行動で、相手を死なせるところだった。ジンの転落後、窓越しに呼びかけるシーンでホムラの胸中はどのようなものだったのかと考えると苦しい。

戸越はずっとジンを疎ましく思っていただろうし、実際彼の背中に向かって銃を撃つ仕草をするシーンもある。しかし、この劇中に引き金を引いたのは彼ではなかった。

この辺りは、ヘッダ・ガブラーでのレェーヴボルグの死が、ヘッダのピストルを使ってではあるが、思いもよらない人物によってもたらされたことに通じるのではないか。

直接的に引き金を引く行為ではないが、この状態のジンにお酒のジンをボトルを差し入れるこはも殺人的行為だと思った。エートにそのつもりはなさそうだが。普通、こうなってる人に酒をあげてはならない。

生き延びてしまうことの衝撃

ラストシーンで生き延びることは、そして再び大衆の前に姿を晒し「笑って良いんだよ」と問いかける。この結末はジンにとって幸せだったのだろうか。観劇後、そのことばかり考えていた。


ジン・ロック・ライムは自死に対して明確に否定的な態度を取る。「死の衝撃」ではなく、「生の衝撃」。ロックミュージシャンという立場もあって、死んでしまった方が格好がつく部分もあるかもしれない。しかし、不格好であっても生を継続していくことを是とする作品だ。

私はある一定の時期を共に過ごした友人が自死した経験がある。だからこそ、観劇直後はこのラストを受け入れられなかった。生きている者からして、生の継続が是であることは疑いがない。ただ、もうこれ以上は無理だと思った時に本人が取った行動を、否定する気にはどうしてもなれなかった。もちろん、生きていてくれて健やかであることがベストなのだが、苦しさの中でもうこれしかないと最後に選んだ行為を、あってはならないことなんだと切り捨てるのは私にとって難しく感じられた。ジンをこの地獄のような檻の中に蘇らせ、また立ち向かわせるのか…と鬱々とした気持ちだった。

「このまま酒浸りで死んだって良いと思ってるんです」はあまりにも直球で、初回からうわーと思ったが、それ以外にも色々とジンは死を仄めかす発言をしている。自分が置かれた状況をコントロールして乗りこなすのではなく、なすがままに命を奪われることを望むかのような発言が散りばめられている。これまで選択しなかっただけで、ジンの脳内には自殺というコマンドが常に表示されているのだ。

アルコールと大麻で朦朧としていたためか、ラストシーンでジンは自分がベランダから飛び降りたことを「覚えてない」と言う。ジンの飛び降りは、選択か。この「覚えていない」が本当なら、意思を持った選択ではない。事故に近いと言えるだろう。それにジンは助かった。助かったし、この事故を生き延びた先で、まだ周りに人がいる。ジンは、周囲の人間に捨てられた訳ではない。世間からは心無い言葉を浴びせられるかもしれないが、ステージに立てば客席にはファンもいる。ただ、これで本当に幸せと言えるのか。

ヘッダは、これから生まれてくる子供の母という唯一無二の存在にはなれたかもしれない。しかし、子の誕生はヘッダにとって希望ではなかった。さらに夫からは除け者扱いを受け、自分が弄んだつもりのブラックには社会的な生殺与奪を握られている。ヘッダはもう疲れ切って、己の活路を見出すことができず死を主体的に選択してしまった。この選択を無意味と切り捨てることはしたくないが、ヘッダの死後、イェルゲンはおそらく研究を通じてエルヴステード夫人と結ばれ、新たな家庭を築くだろう。ブラックはヘッダが死んだとして失うものは何もない。結局、彼女がめちゃくちゃにできたのは子の未来と自分自身だけだ。生きていれば、この家を飛び出してどこかに行けたかもしれない。それこそエルヴステード夫人のように。けれどそれはもうできない。彼女は彼女自身の選択によって死に、彼女の人生に続きはないからだ。

私はヘッダ・ガブラーのあまりにあっけない幕引きを読んで、ようやくジンが生きていて良かったと思えた。

当たり前すぎるけれど、死んだらどうにもならないのだ。あまりにもどうにもならない。生の肯定は、必ずしも死を選択した人への否定ではない。生きている人間、生き続けられている側の人間として、辛くても前に進むことこそを肯定しなければならないだろう。ここまで来てようやくパンフレットの対談で述べられる「生の衝撃」を受け入れることができた。

ヘッダ・ガブラーの劇中でヘッダはある人物に向かってこう言う。「わからない、どうしてわたしが──幸せでなくちゃならないのか。あなたに言える?」ジンと真逆の結末を迎えた人物の言葉ではあるが、自分が考える「幸せ」の定義に相手を無理やり当てはめようとすること自体が馬鹿げている。どうあるのが幸せか、他人からは測れない。ただ、とにかく生きてさえいれば無限に選択肢があり、その中で何かを選び取って掴んでいくことができる。状況に身を任せるのではなく、主体的に選択し続けることがエートがジンに求めた「ちゃんと生きる」「自分を大切にする」ことなんだろう。

ジンは前に進む。生き延びた衝撃により、もう一度自分で船を漕ぎ出すことにしたからだ。おそらく、ラストシーンのライブはキャンセルすることもできただろう。ショウコも、一度は「やめよう」と言ったかもしれない。でも、ジンはステージに立つ。きっとそれはジン自身の選択だ。流されるのではなく、自分で選んで成す行為だ。壁にぶつかればこれまでのように投げやりになることもあるかもしれない。けれど、その度に彼は自分自身の内心を問い、今度は周りにいる他者と向き合い、話すことで解決策を見出せるようになるだろう。それに、人生最後に飲むお酒が一番搾りの缶なのは何となく寂しい。(ただ、私は「あ、これ酒だ」と茫然自失の状態で手から缶を落とすシーンがヲタクとして大好きだ。あまりにも痛々しくて。本来見ていけないものを役や演目を通して見ることができるのはヲタクの醍醐味だとすら思う。)

ジンの転落後、ガラスの窓越しにショウコが声をかけるシーンがあるが、これは見事だ。このシーンはジンの内心をよく表していると思う。近くにいる人間がジンにどれだけ言葉を投げかけようと、まるで窓越しに叫ばれているようにジンにはどこか遠くの言葉に聞こえていたのだと思う。

ジンはこれまで、周囲の人間を愛しながらも向き合うことを避けてきた。

ラストシーンのライブ前、戸越が手で作った銃をジンに向ける。ジンはそれを見て微笑む。戸越が日々ジンの振る舞いにうんざりしながら、こんな奴めちゃくちゃになってしまえと思っていたことをジンは知って、受け止めたのだと思う。転落を経て、きっとジンは周囲の人とちゃんと話したから。だからこそ、あそこでジンは笑ったのだろう。「ちゃんと生きる」に向かっている証拠だと思う。

世間からどう見られるかのギャップに怯えて自暴自棄になるのではなく、自身の主体的な選択のもと、俺を見ろと差し出す。その行為はかつての彼がただただ「見られて」いたこととはおそらく異なる。

なすがままに身を差し出し"見られる"のではなく、自分を能動的に、見せる。自分の選択によって、もう一度立ち直る。そんな意思を明確に見せたジン・ロック・ライムのラストシーンを、今では好きだと思える。

何より、職業:アイドル である髙木雄也が、この作品の主演を務めることが持つ意味の重さと面白さ。周囲の要求と自分自身の乖離に苦しむジンを散々見つめた末に出る感想がこれなのは我ながら酷いと思うが、これからもアイドルとして、舞台に立ち続けて私に面白い作品を見せてほしい。

timelesz project -REAL-(タイプロリアル)の原嘉孝がすごい!

タイプロリアル韓国編中心雑記、完走した人向けです。

 

ローな3人組と本人たちが言及していたけど、それぞれが今当たってる壁を打開するには他の二人と向き合うことが鍵になってる組み合わせだったなと思う。特に原嘉孝と佐藤勝利の関係性が大きく変化して、その後の展開のキーになっていると感じた。


2/15配信分のタイプロリアルで特に印象に残ったのが原嘉孝。元いたグループには年少組として後から加入し、その中で出来ることを最大限やったのにグループが無くなってしまった経験を持つ人。勝利は同期だけど自分よりずっと先にデビューした相手で、勝利が出ている紅白で原は裏方として目黒と一緒に地球を吊り下げていたというエピソードが記憶に強く残る。紆余曲折を経て、同期が開催したオーディションを受けて同じグループに加入するのは一体どんな気持ちなのだろう。その葛藤が垣間見えたのが韓国修行と合宿だったと思う。


ただの個人的感想かつ一種のポジショントークにならざるを得ないので先に明言するが、私は元健人担・現篠塚担である。あとは本業がSixTONES松村担なので8.8を現地で見ている。当時の宇宙Sixのことを外野ではあるものの眺めていた者であり、コロナ禍には原嘉孝が代打で主演を務めた両国花錦闘士にどハマりして複数回足を運んだりもしていたため、誰の何すぎるがタイプロオーディションから今に至るまで常にう、うお〜!原嘉孝頑張れ!原嘉孝すごい!(涙)と思っている。

 


それからアリーナでもドームでも、革命のDancin' nightでは原嘉孝と寺西拓人で目が反復横跳びしてしまう。足の甲の出し方一つとってもこの二人は超絶綺麗なのだ。この振り付け、この衣装、この立ち位置でどう踊れば美しいか完璧に理解してる感がすごい。長い時間をかけて、磨かれてきた技術がある。

 


韓国でAIKI先生の指導を受けているシーンでも、ダンススタジオのレッスンでも最初にコツを掴んでいるように見えるのは原だ。振付を覚えつつ、どう動けば最大限自分の身体がカッコよく見えるかを瞬時に掴んでいく。スタジオレッスンでのダンスの顔の残し方とかは、やっぱりこの人ダンスが上手いし、それでいてダンサーじゃなくて踊りの上手いアイドル〜♡とメロついた。

スタジオでの佐藤勝利は比較的踊れているものの、「むずいな」と声をかける。勝利の周りの気持ちを確かめるような、共感・寄り添いの強いコミュニケーションも特徴的なのだが、原とはほぼ真逆のアプローチに思える。

 


原も述べているように「やったことない動きが多い」篠塚は、お手本を見ながら固まっていたり、なかなか動きがついて行かない。完全な推測に過ぎないが、篠塚は体を動かすのに理解が必要なタイプなのだろうという気はする。やったことない動きに対して、じっと観察している感じ。真剣な眼差しで口をぎゅっと結んで観察する姿に胸打たれるし、本気で未経験からここまで成長していることに見る度驚かされるけれど、技術的な研鑽の余地があることは間違いない。細かい腕の角度なども丁寧に直しが入る。焦っているのは明白で、「次にいきましょう」と言う篠塚に「水を飲みましょう」という呼びかけが入るシーンもある。「どこが分からないか」と言われても、「笑顔を見せてくれませんか」と言われても難しい。状況としてめちゃくちゃ苦しいだろう。見ているこちらもかなり苦しいシーンが続く。

 


ここで重苦しい空気の中「ビデオもらえます?」と、3人で前に進むための材料確保を忘れない原嘉孝、ナイスプレーだ。その後の佐藤勝利との関係性に対する言及も良い。自分よりずっと先をデビュー組として歩いてきた同期にどう接するかという課題を一つ乗り越えたシーンだと思う。一緒のグループとしてやっていくために、経歴だとかは取り払ってお互いに気になる部分を伝えるという、同期組の課題が徐々に克服されていく。

 


目を潤ませながらの「さっきイライラしてた?」「それは自分に対してのイライラなの?」の声がけも、最大限の優しさだと思う。こんな裏側でまで?という声もチラホラ見るが、カメラが入っていて撮影されている以上はどのような編集になるかも分からない。用心するに越したことはないのだろうし、ある意味基礎なのかもしれない。見え方で誤解されたら最後、弁解の余地が与えられることのほうが少ないだろうし。他人からどう見えるかが全てと言っても過言ではない世界で長年過ごしてきた人が気になってしまうのは当然にも思える。ただ、ここで「イライラすんなよ」ではなくて相手にきちんと確認するコミュニケーションを取れることがすごい。私なら「お〜い、イライラすんなよ」と注意するか、(イライラしてて空気悪いな〜…)と思いながら声掛けはせず、相手がイライラしているという認定のまま、こっちもそれに対して勝手にイライラしてしまい、溝を深めること間違いなし…篠塚の「していないし、しているとしたら自分に」という答えを受け取った上で、更に自分がどう感じていたか伝える胆力は、私にはない。一方で篠塚の「何が分かんねん」も間違いではない。過去の経緯的に、原嘉孝が一番過去の自分と重ねて篠塚を理解できそうという気もするのだが、それでも当事者からすれば何が分かるんだという気持ちになるのは当然のことだろう。置かれている状況、めっちゃ苦しいもん。

 


原とは対照的に、佐藤勝利の声掛けは優しく、やや遠回りだ。直接的な指摘や注意ではなく「すごかったね。くらってどうなんの?」のように相手の意思を待つ。ここ、ちょっと原は納得してないか?!と思ったが、さっと流れを切り替える勝利。この穏やかさが大きな長所なのは間違いないが、今この瞬間に焦りを感じている人にとっては物足りなさを感じてしまうかもと若干ドキドキ。ただ、レッスン後に自分自身の出来に焦りを見せるものの、こういった場面では穏やかさを保ちながら相手の言葉を引き出すという勝利のコミュニケーションも、間違いなく一つの技術だろう。

 


「いつも特別大変」な篠塚の見せない努力を尊重しつつも、自分から見て気になったことを伝えのって、これからアイドルという仕事をグループとして共にしていくためにとても重要だと思う。そしてこのあと「(バスキンで)韓国揺らしますか」と言えるところが篠塚の人としての愛らしさだなと感じる。ファイティン、バスキン、パッション。

 


振り返りでお互いを知ることでパフォーマンスがまとまると述べられていたが、パフォーマンスを高めるためにはお互いを知らなければならないという逆説的な側面もあったように感じた。

 


パフォーマンス後にAIKI先生とHOOKのお二人からコメントをもらった後の勝利のリアクションが本当に好き。急に勝利のひょうきんな部分が出ると本当に嬉しい。勝利がこういう伸び伸びした感じでいられる環境よ永遠に…。

 


篠塚は長い手足を活かして、HOOKのジヨンさんのように足を大きく使う踊りができるようになればいいなーと思う。コンサートでワイルドというよりはしなやかな感じの踊りが意外と上手かったので、今回は振り付けのジャンル的になおさら苦戦したのかも…と思うが長身を活かしていろんな踊りをしているところが見たい。AIKI先生がおっしゃってた情熱を私も感じています。一生懸命である限り、困った時はみんな助けてくれるよ。応援しています、心から…。韓国での修行やその後のあれこれを経た後のドームで「髪染めたんですか?」に「ライブです。ライブだからです。」って嬉しそうに返してる篠塚がいるの本当に嬉しくて、ステージが、ライブがこの人にとってずっと楽しくて努力が報われる場所であって欲しいなと思った。

 


相手の反応を引き出す勝利と、直接的に教える原、それをどちらもきちんと"優しさ"として受け取れる篠塚。同期に弱さを見せることと、後輩に背中を見せて寄り添うことを両立できる勝利。そして同期に対しても、後輩に対しても臆さず自分がどう受け取ったかを伝える原。これが合宿編の1on1での「この相談をするのは勝利が初めてなんだけど…」や、8人でのミーティングにおける切り出しにも繋がっているのだと思う。(8人ミーティングの時、切り込む原に呼応する勝利の返しと、振り入れに関する寺西の発言にも要注目)

 


各々が思ったことを相手にしっかり伝える。良いことも、悪いことも。オリメン、俳優部、ひよこ組、関係なく。大人になってから集まった者同士だからこその難しさや怖さがあるのだと思うが、グループにとって必要不可欠なことなのは間違いない。タイプロリアルでは重要な場面でその役割を率先して引き受けた原嘉孝が印象的だった。

 


各々がグループとしてのあり方を模索し、悩んで、相手に伝えることを経た8人のtimeleszのアルバムとツアーが今から楽しみだ。

 


最後の方でドームのRUNの映像がチラッと流れるの泣いてしまった。全員主人公の顔してて。全員が、アイドルになって良かったと思って欲しい。思い続けて欲しい。伝えることを大切にしながらいつまでも8人でいてね。がんばれ!

実写版秒速5センチメートルを観た話

朝の雪は目が痛いほどに青白く光り、昼の雪はどことなく灰色で、夜の雪は街灯に照らされてうっすらと緑色に光る。

夜の雪が表面に何とも言えない色の光を帯びているのを見るたびに、寒いのか温かいのか分からなくなるし、どことなく惨めな気分になるけれど、それと同時に安心する。

私が雪に対して抱いているこの感情が切り取られているようで、中学生の貴樹と明里が岩舟駅で落ち合うまで、そして2人で雪の中を歩いていくシーンが好きだ。この感覚が通じるのは雪国に生まれ育った者だけだと思ったが、別にそうでもないらしい。映画館を出て監督の名前を検索したら、Wikipediaに「出生地 東京都」と書いてあった。私は都会で生まれ育った人間が憎い。


2009年3月26日にあの場所で後ろを振り返った時、そこに誰もいてくれなかったと虚しく思うか、過去があるからこそ今自分がここにあるのだと愛しく思うか。貴樹は前者なのだろう。


秒速5センチメートルは、「一生大切にするね」を本当にやる人たちの話だ。

ただ、その大切なものが入った箱に他のものを入れることを拒み、ただ一つだけの宝物を見つめている人間と、別の物も沢山入れて、ふと思い出した時に箱の底に手を突っ込んで取り出したものを眺めることのある人間。ずっと明里との思い出に囚われたままの貴樹と、配偶者の海外赴任に帯同するために実家へ荷物の整理に訪れた明里は残酷なまでに対照的だ。


貴樹の「世界とのつながり」が途切れてしまった直接的な原因は、決定打はなんだったのか、あまりよく分からないし途中まで共感もしなかった。原作では、手紙を無くしてしまったことが決定打としてもう少し分かりやすく描かれていた気がするが最後に観たのがかなり前なのであまり自信がない。

しかし、貴樹がプラネタリウムでぽつりぽつりと自分のことを話し始め、堰を切ったように言葉と涙が溢れていくシーンでは気が付いたらこちらも泣いていた。

宝箱には他のものを何一つ入れたくないと思っていても、人は生きているだけでありとあらゆるものに出会う。どれだけ大切なものや言葉、人であっても、時が経てばいつかは自然と忘れていく。その事が許せない人間と日常として受け入れられる人間。


言わなかった、言えなかった、やらなかった、行動できなかった後悔はずっと付きまとうのかもしれない。特に、劇中のまだSNSも盛んでないような時代には一対一の直接的なコンタクトを試みない限り、すれ違う以上の関係が再び訪れることはない。相手が存在しない世界に生きている間ずっと耐え続ける他ない。

この、過去に囚われて時計が止まったままの人間の憂いと、歪とも言える子供っぽさ、閉じている感じが松村北斗の雰囲気と良く合っていたと思う。貴樹の声が誠実で切実というのはその通りだ。そこからほんの少しだけ前に進んだ貴樹が、水野と話しているシーンもとても良かった。


少し気になったのは監督のキャリアから来るものかもしれないが、映像のアングル(という表現で正しいだろうか)が切り替わるテンポがやや早いことだ。

急にぐーっとカメラが引いて行くシーンが複数回ある。画としては美しいものの、個人的には没入感や登場人物に対する感情移入が阻害されるように感じた。

風景画のようなシーンが次々映されるのは新海誠も使っている手法のように思う。ただ、これをやる際、アニメと実写は同じ時間映していても、詰め込まれている情報量の差からか、実写の方が速く感じるのではないか。もう少し、ゆったりとしたテンポでも良かったのではと思うシーンは多かった。

特に、貴樹と花苗が夜にコンビニの前で会話しているシーンなんかはもう少し定点でゆっくり見せてほしかった。細部は朧げにしか思い出せないものの、アニメで一番印象に残っているシーンの一つだからだ。私にはちょっと撮り方がオシャレすぎた。


松村北斗のヲタクとしては、秋冬っぽい服装の松村北斗最高!AWは松村北斗のシーズンです!と言いたい。

ロンTの肩幅、やんわりと他者を拒絶する猫背に浮き上がる肩甲骨。重そうなニットやキャメルのコート。

雪原のシーンは予告で切り取られたものを見た時に嘘くさすぎやしないかと思ったが、物語の中で見ればその嘘くささすら美しかった。ありがたい。丸みを帯びた髪型と、少し重い前髪から滑り台のような鼻筋がスッと伸びているビジュアル。荒れた部屋、飲み終えたアルコールの缶、喫煙。都会で草臥れている男って、良いからね。

 

めちゃくちゃモノローグが多かったはずのアニメを見返すことで、実写では少し分かりにくく感じた部分も補完されるだろう。少し映像的に惜しいと感じるところはありつつ、質感としてはかなり満足している。

今日は初日ということもあり、都会の映画館はほぼ満席だったが、そのうち田舎の空いている映画館のレイトショーでぼんやりと眺めたい。もう少し孤独な状態で観たい。

そしてこれからは新海に加え、奥山にも嫉妬していこうと思う。実写版秒速5センチメートル、公開おめでとうございました。