与太話

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ウェンディ&ピーターパンを観た話

※後半ネタバレあり

 

多分私はピーターパンの話があんまり好きじゃない。


小学生の頃、学芸会でピーターパンの劇をやったけれど、タイガーリリーの仲間のインディアン役になった同級生がアワワワワー!とか言わされているのを見てなんとも言えない気持ちになったことしか覚えていない。


高校の時、倫理の授業でピーターパン症候群という言葉を知った時はなんじゃそりゃと思った。ピーターパン症候群やエディプスコンプレックスは男のもので、女はシンデレラコンプレックスがどうのこうの言われたけれど、いやいや私別にガラスの靴とかいいっす できれば大人にならずにずっとヘラヘラしてたいんでピーターパン症候群の仲間に入れてくださいよと思った記憶がある。

 


最近ではすっかりピーターパンの話なんて忘れてしまっていたのだが、なんとこの度中島裕翔がピーターパンになるらしいので観に行くことにした。


会場に入ってすぐのところでパンフレット(2000円)が販売されている。早速購入したけれど、現金をおろしてくるのを忘れていたので買った瞬間パンフレットと引き換えに文無しになった。現金決済のみなのでこれから行かれる方は注意してほしい。


あとは開演待つ間、水でも飲むか〜なんか自販くらいあるだろと手ぶらで行くと300円のペットボトル買うことになるので気をつけてください。(こちらは電子マネーなどが使えます)もうすっかり観劇の前段階を体が忘れていて悲しいね。

 


ウェンディ&ピーターパンはおそらく死の物語であり、家族の物語であり、そしてウェンディが自分自身の居場所を見つける物語だ。原作そのままではなく翻案なのだが、その視点がとても現代的だったと思う。

 

ダーリング家の長女・ウェンディは勇敢で活発な女の子であり、弟たちの戦争ごっこにも混ざりたがるけれど「戦場に女はいないから」と仲間に入れてもらえない。それはネバーランドに行っても変わらなかった。ウェンディはある目的を持って弟たちとネバーランドに赴く。いなくなってしまった末の弟を探しに来たのだ。弟がいなくなってから、ダーリング家はすっかりギクシャクしてしまっている。長女のウェンディはそのことに責任を感じており、何とか末の弟をネバーランドで探し出さなければと思っている。けれどピーターパンもピーターパンと暮らすロストボーイズたちも、そんなのお構いなしでウェンディに「お母さんになって!」と頼む。ウェンディは「私はあなたのお母さんじゃないの」と繰り返すが、お腹が減ったあれが見つからない一緒に遊ぼうなどと、実の弟たちさえもウェンディのお願いをまともに聞き入れない。彼らが欲しいのはただ面倒を見てくれて、自分たちの言うことを聞いてくれて、ご飯を作ってくれるお母さんだからだ。このあたりの違和感やズレというのは、男性と結婚願望の有無について話す時、必ずと言っていいほどぶち当たる壁に思う。それって別に結婚がしたいんじゃなくて、身の回りのことなんでも無料でやってくれてしかも可愛くてエッチで全ての欲をワンストップに満たす最高の女が手元に欲しいだけじゃん、みたいな。だんだん腹が立ってくる。しかし、黒木華の演じるウェンディは従来のウェンディではない。柔らかな外見のイメージとは裏腹に、周りの期待に応えてお母さんを演じるようなことはしない。何度でも「私はお母さんじゃない」と繰り返す。当たり前だけれど、ウェンディはここにいる誰のお母さんでもないし、少し大人びてはいるけれどただの一人の子どもだ。賢くて勇敢だけれどまだまだ子供、という絶妙なバランスが役にぴったりハマっていた。

 

対するピーターパンは憎たらしいくらい子どもだ。フワフワと宙を飛ぶし、都合が悪くなると変な踊りをしてごまかす。中島裕翔、この間28歳になったんじゃないのか?いつ見てもバツグンすぎるスタイルはめちゃくちゃ大人なのに、軽々とした身のこなしも目の輝きも明るい声音も、都合が悪くなると居てもたってもいられなくて動き出す手足も完全に子供だ。ヲタク心から可愛いと思う反面、あんたウェンディの話ちゃんと聞きな!と本気で怒りたくなるから演技としてはしっかり成功しているのだと思う。

 

ティンカーベル宇宙を駆けるよだかに出演していた富田望生が演じている。このティンカーベルはウェンディのことが嫌いだし、子供の面倒はあんたが見てよね私は何にもやらないよ!というスタンスだし、結構暴れん坊なのだがすごく可愛い。私はずっとこの人が可愛い役をやっているところが見たかったので個人的にはとても嬉しかった。衣装が本当に似合っていて、ティンカーベルが動くたびに可愛い音が鳴るのが最高。お金のかかっている舞台のちゃんとした衣装は見応えがあって楽しい。

 

ウェンディはダメダメすぎるピーターパンとダメになっている弟たちをあきらめて、一人で目的を果たすためにネバーランドを歩き出す。そこで出会うタイガーリリーは東宝シンデレラモンスターハンター山崎紘菜だ。いつも映画館で上映時間前にお世話になってます。このキャラクターはアジア的要素が反映されており、原作のインディアンという要素がほぼなくなっている。(この点はこれでいいのか?とちょっと思った。古のディズニー作品的インディアン描写もそれはそれで問題あるだろうけど)アクションシーンの身のこなしがきれいだったので、観ているうちにちょっとモンハンの映画が気になってきた。

 

この作品の主人公はウェンディであり、ピーターパンではない。ウェンディはピーターパンがいなくてもタイガーリリーや、自分を嫌っていたティンカーベルと手を取り合ってフック船長に立ち向かうことができる。女同士ピーターパンをめぐって争うのではなく、女も当然に団結し、立ち向かうことができるというのはこの作品の一つのこだわりのようである。ウェンディは元いた世界では戦争ごっこの仲間に入れてもらえなかったが、ネバーランドでは自分の考えた戦術で自らフック船長と戦うことができるのだ。

 

ネバーランドはこの世とあの世の狭間であるようなことがほのめかされるが、ピーターパンはフック船長を倒そうとしているし、ネバーランドで死んだ人がいることも描かれている。本作においてフック船長の天敵であるチクタクワニは少し変わった描かれ方をしており、フック船長も死の恐怖を克服できずに時間に縋りつく人として表現されている。そりゃ自分の右手を食べて人間の味を知ったワニが怖いのは分かるけれど、原作のピーターパンにおけるチクタクワニの存在が意味するものが私はずっと分からなかった。チクタクワニについてはこの作品の解釈で腑に落ちたような気がしているが、ネバーランドにおける死や老いはよく分からなかった。

 

ネバーランドにいながら大人であるフック船長と海賊たちが私にとってピーターパンのよく分からない部分の一つだが、フック船長もおそらく大人にはなり切れていない。けれどピーターパンの中に自分自身の過去を投影していると思われるシーンがあり、そこがなんとも切なかった。堤真一がダーリング家の父とフック船長をどちらも演じているのがなんとも示唆的だ。

 

冒険活劇の末、ウェンディはピーターパンとの対話を通じて、探していた末の弟はいなくなったのではなく、亡くなってネバーランドに来たのだということを突き付けられる。恐らくこれは最初から分かっていたことだが、ウェンディにとっては受け入れられていなかった。ウェンディは元の世界に帰りたくないと言い張るが、弟たちになだめられてやっと末の弟の死を受け入れる。冒険を通じて弟の死を受け入れることが、ウェンディにとってのネバーランドの意味だった。そして、その死を受け入れることで家族が前を向くことができた。

 

ウェンディの母はウェンディに「もう弟たちの心配もお父さんの心配もしなくていい」「あなたの面倒は私が見るの」と語りかける。これにより、ウェンディは自分自身がありのままでいて良いということ、そして自分自身の居場所は現実の世界にあるということを見つけ出す。ウェンディは子どもとして、求められる役割を演じずとも存在して良いということがはっきり書かれているのも翻案における現代的な視点だと感じたし、実際問題そうあるべきだと思う。

 

けれど、ウェンディのお母さんは?家族全員のことを母が背負っているのは結局変わらない。そのあたりに少し暗い気持になった。現状私も結婚したくない、子ども欲しくないのスタンスで生活しており、普段は何とか一人でやっていても実家に帰ればダラダラ過ごして母親に料理を作ってもらって甘えている。私がネバーランド的過ごし方を辞めて家で働いたとしても、お母さんはあらゆるシーンでお母さんである。私が役割から解放された時間を過ごしている間もお母さんはお母さんであり、私が家を離れている間も父親がいる限りお母さんはお母さんで…となるとお母さんがお母さんの役割から解放されるには一体どうしたら?と観終わった後答えの出ない問答をしてしまった。

 

子供が守られるべき存在であることがより明確になる一方で、母親は?父親は?大人は?というのは、これからの世の中やそれを映すエンタメがぶつかる一つの壁じゃないかと個人的には思う。強い女の子、自立した女の子像がそれこそディズニーからも描かれるようになってきたが、そうではなかった時代に女の子をやってきて今も生きている大人たちはどうなるんだろう。そして当たり前に女の提供するケア前提で成り立っている今の社会の仕組みはどう変わっていくんだろうか。現状、私の中でも世の中的にもケアする者とケアされる者のバランスに対する答えは出ていないと感じるが、百年後くらいの進化したおとぎ話では、もしかしたら今とは違った形の定番ができているのかもしれない。私はウェンディだけじゃなくてウェンディのお母さんにも幸せになってほしい。ウェンディのお母さんは名前が出てこない。役名はミセスダーリングだ。妻、母という役割をこの作品の中で一手に担う存在になってしまっていると思う。結局、ウェンディが逃れられた役割も、それを果たしてくれる母がいるというのが拠り所であるため、その点ではすっきりしていない。

 

しかしながら、従来のピーターパンでウェンディが担わされてきた母親のジェンダーロールに対し明確にNO.を突き付けた点がこの作品の面白いところだ。良し悪しはあれ、長く語り継がれるおとぎ話というのはやはり時代に応じて少しずつ変化していくのだろう。新しい主人公としてのウェンディを見せるにあたり、ピーターパン役にジャニーズを抜擢して大人の女性客を呼び込むというのは戦略的にすら思えるし、意味があると感じる。

 

ピーターパンは憎たらしいほどふざけている反面、ずっとウェンディに本当のことを教えたがっていた。きっとそれを教えたらウェンディは元の世界に帰ってしまうと分かっていただろう。ウェンディたちが帰ってしまった後も、ずっと年を取らずに子供のままネバーランドの中に暮らし続けるピーターパンと、時間を前に進めていくダーリング家のことを考えると切ない。結局ネバーランドがなんなのか、そしてネバーランドにいる大人たちの存在、ネバーランド内において死ぬこととはなんなのか、というのは改めて他人の視点を借りて考えてもよく分からなかった。この辺りは深く考えるのはナンセンスなのかもしれないが、翻案にあたり絶妙に現実的な視点が持ち込まれているため気になってしまい、正直今もすっきりしていない。

 

大人になってから見るピーターパンはちょっと怖くて切ないし、ある意味とても残酷だと思う。けれど、舞台装置や衣装の美しさで視覚的には大きな絵本のようだった。そしてPARADE(名古屋)ぶりに見る中島裕翔はやっぱりこの世の中で最高峰に綺麗で、登場した瞬間びっくりして涙が出てしまった。夢のようで、でも現実のようで、でもやっぱり中島裕翔綺麗すぎだし夢かなというのがヲタクとしての感想である。

 

座席の販売方式がどのようになっているのかよく分からないが、チケット入手チャンスはまだありそうだ。決してすっきりする話ではないけれど、気になっている人は観る価値があると思う。お話が馴染まなくても、舞台装置と衣装のお金かかっている感に圧倒されるだけでも価値がある。そして中島裕翔は美しい。観劇の際はパンフレット代のこと(2000円・現金のみ)と、劇場内で水買うと一本300円ということを忘れずに行ってほしい。(あの会場を維持するためには必要なことだと分かってるので金額に文句はないけど現実的には懐が痛い)

 

以上、ウェンディ&ピーターパンを観た話でした。