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天気の子 「愛にできることはまだあるかい」への答え

※ネタバレ満載。作品に対しては好意的な内容です。

 

マジLOVEキングダム観に行くたびに予告編が流れていて、予告編のモノマネだけはできるので、そろそろ本編履修した方がいいだろうと思い、ついに観てきました。

結論から言って、2019年最大のヒットがこの映画なのかなり面白いと思います。映画の評論読むのが好きで、この作品に対して様々な批判があったのは知ってるのですが、鑑賞後、そのどれもが自分の感想と異なったので、あえて公開終了間近のタイミングで記事にしようと思います。

 

 

 目次

 

 

 ヒロインの消耗

 ヒロインの陽菜(ひな)は、願うと天気を晴れにできる力を持つ女の子。家出少年の主人公、帆高(ほだか)と一緒に天気を晴れにするビジネスを始める。陽菜は「やっと自分の役割が見つかった」と、晴れ女の仕事を通して人の役に立つことに喜びを感じている。

 しかし、その仕事がインターネットを通じて大勢の人に認知され、依頼が増えるにつれ、陽菜はどんどん本来の姿を失っていく。体が透明になり、しまいには宙に浮き始める。普通でなくなってしまうのだ。

 そして、天気の巫女は、狂った天気を治す代償に人柱として神隠しに遭うという伝説のとおり、主人公の前から姿を消してしまう。

 

個人の消耗は社会のために行われる

 いまいち大人になり切れない大人として登場する須賀は、「世界はもともと狂ってる」という。この狂いというのは何か。大多数のために個人が消耗され犠牲になること。そしてそれを仕方のないこととして、みんなで見て見ぬふりをすることで、維持される社会の仕組みだろう。

 

恋は個人のために行われる

 「天気が狂ったままでもいい、陽菜さんがいてくれる方がいい」

 陽菜は自身が人柱である運命を受け容れようとしていたが、主人公はそれを引き留めようとする。恋愛は個人のために行われる。恋はエゴイズムだ。全体の利益はもちろん、時として相手の気持ち(ここでは陽菜が運命を受け容れようとする覚悟)すらも切り捨てて、行動するパワーを与える。非常に危険でもある。主人公はこの恋の衝動のままに、いろいろと社会のルールに背くし、批判的な内容のレビューはここに言及しているものが多いと感じる。

 恋は、ある意味自分一人だけのものだ。では、この作品に描かれる愛とは何だったのか。

 

消耗のシステムからの脱却

 社会のその他大勢は、ヒロインの仕事や能力を「便利だから」必要としている。

 しかし、主人公は陽菜の晴れ女としての能力や有用性が好きなのではなく、陽菜自身が「好き」なのだ。全体の役に立たなくたっそのものに価値があると認めている。晴れ女や人柱としての道具的意味ではなくて、「存在そのもの」に価値を見出しているのだ。だから、主人公は天気が狂ったままでも、ヒロインがいる世界を望む。

 自分と関りのないその他大勢の人を含む大多数の幸福よりも、自分の目の前にいる個人への尊重を選ぶのだ。個人の行動でしかない恋を通じて、主人公はヒロインを消耗のシステムから脱却させる。それによってヒロインは救われる。これがこの作品が示す「愛にできること」なのだと思う。

 

主人公の選択

 社会の危機を救うことよりも、ヒロインの存在が存続することを選ぶ。この選択は作中、地上の世界、人間の世界と切り離された空間で行われる。

 これこそが本質的な部分である。そもそも思っているほどの責任なんて存在しないのだ。今の世の中、何かにつけて個人が全体のために消費されるのが当たり前のようになっているし、何かにつけて責任の所在が議論されるが、これはそもそも狂っている。

 なんでも可視化されてしまうように思える時代で、陽菜と引き換えに天気を犠牲にする選択を、観客はいけないことだと思いながら見ている。主人公のいる世界の人たちの代わりに、画面に映る見慣れた街並に思いをはせながら、なんてことをするんだ!というような気持ちになる。主人公も、その責任を問われるのではないかという不安はあっただろう。けれど、主人公と陽菜のことは本来誰も見ておらず、責任を問われることはないのだ。

 だいたい、陽菜を犠牲にしたところで本当に天気が治るのか、どれくらいの間、天気の正常が取り戻されるのかは分からない。そんな不確定要素満載の中で、自分の大切な人、物事を犠牲にする必要はない。

 だから、主人公は天気が狂ったままでも、ヒロインがいる世界を望む。自分と関りのないその他大勢の人を含む大多数の幸福よりも、自分の目の前にいる個人への尊重を選ぶのだ。

 

愛にできること

 不確定要素が多すぎる不安な現実世界で、全体のために誰かが犠牲になり、不幸になることへの否定。全体主義から、個の尊重への変化。狂っている社会で優先されるべき順序をひっくり返す。大切な誰かが、全体のために社会に消耗され、消費されてしまうことから守る。

 マジLOVEキングダムに通っていたころ、毎回予告編で聴いていた「愛にできることはまだあるかい?」のフレーズには正直うんざりしていたが、映画の本編を見てこの曲の印象が180度変わった。

 全体を優先した視点の中では「愛にできることはまだあるかい?僕にできることはまだあるかい?」と逡巡していても、そこから抜け出す選択を直視することで、「愛にできることはまだあるよ、僕にできることはまだあるよ」と答えを出す。

 「愛にできること」それは、狂った全体主義の構造から脱却し、相手を消耗や消費から守ることである。そしてこのことこそが、この映画の主題なのだと思った。

 水没した東京で、かつて晴れ女の依頼者だった女性は言う。「もともとあの辺りは海だったんだって。もとに戻っただけなのよ」大きく捉えられるようになりすぎた社会の中で、もっと小さく自分の世界を認識したって良い。そんな風にも聞こえる。

 

天気の子のヒットが持つ意義 

 全体のために、粉骨砕身するのが称えられる価値観はこれから変わっていくだろう。

 ブラック企業とかいう言葉もずいぶん浸透し、24時間戦えますかという古のキャッチコピーに違和感を持つ人が増えてきた。社会のために役に立つことはもちろん素晴らしいことだが、それを最優先する必要なんてない。

 能力で社会から必要とされることや、全体からの承認だけが意味を持つのではない。世界を小さく捉え直し、身近で大切な存在と一緒に、全体主義から脱却して、小さく幸せを築いていってもいい。そういう映画だった。

 2019年最大のヒットとして、「天気の子」は間違いなくふさわしい、そう思う。